マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

無理・道理の判別を必ずしも自我単独で行えるとは限らない


 といわれますね。
 この言葉を――
 僕は非常に重要な警句と考えています。

 というのは――
 この言葉、

 ――人は、無理・道理の判別を必ずしも自我単独で行えるとは限らない。

 という現実を示唆しているからです。

 たしかに――
 無理筋の言い分ばかりが通るような状況では――
 道理が引っ込むのですよね。

 そういう状況では――
 仮に、道理を説こうと思っている人がいたとしても、

 ――あんな無理が通るくらいだから、道理が通るはずはない。

 と諦めてしまう――

 あるいは――
 無理筋の言い分ばかりが繰り返し飛び交っていると――
 仮に、道理に沿った言い分を心がけようと思っている人がいたとしても、

 ――いやいや、ちょっと待て。自分の言い分だって、もしかしたら無理筋かもしれない。

 と思い直してしまう――
 誠実で慎重な人ほど、そう思い直すでしょう。

 もちろん――
 誰かの言い分や自分の言い分が無理か道理かは――
 理想的には――
 絶対的な基準によって判別されるはずです。

 が――
 現実的には――
 相対的な基準によって判別されることが、多々あるのですね。

 人の知性というものは――
 残念ながら――
 無理・道理の判別を自我単独で行えるほどには逞しくありません。