マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

話の完成度は高いほどよいというものではない

 話の完成度は、高ければ高いほどよい――
 というわけではありません。

 ここでいう「話」とは、主に講演や座談ことですが――
 論文やエッセイ、小説、あるいは、映画やテレビの番組についても、同じようなことがいえます。

 なぜ、そういえるのか――

 話の完成度が高すぎると――
 聴き手は、うっかり聞き流してしまうからです。

 完成度の高すぎる話を、最初から最後まで、過不足なく聴き通すと――
 多くの人は、

 ――ああ、良かった、面白かった。

 とか、

 ――ためになった、よくわかった。

 と満足はしても――
 その後、自分の頭を捻って考えて、あれこれと思いを巡らすということが、やりにくくなります。

 その次への意欲がわかなくなるのですね。

 具体的には、

 ――いやいや、本当は、もっと違う結論があるのではないか。

 とか、

 ――他の人が、同じ主張をもっと違ったふうにしているかもしれない。

 と思って、考えたり調べたりする意欲が削がれるのです。

 なぜ意欲が削がれるのか――

 おそらく――
 完成度の高すぎる話というのは、もうそれ以上は何も手を加えなくてよさそうな感じ――いわば“完璧感”のようなもの――を放つからです。

 この“完璧感”が聴き手の意欲を削ぐのですね。

 もちろん――
 完成度は、低ければ低いほどよいということでは、ありません。

 完成度が低すぎる話もまた、聴き手の意欲を削ぎます。

 低すぎる完成度が、今度は、聴き手を苛立たせてしまうのですね。

 話の完成度は高からず低からず――
 ちょうど良い範囲に収める必要があります。