マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“行う者”と“表す者”との境界を越えるなら

 世の中には、

  “行う者”

 と、

  “表す者”

 とがいます。

“行う者”は、世の中が回っていくのに欠かせない営みに、直に関与する者であり――
“表す者”は、世の中が回っていくさまに思いを馳せ、何事かを表現する者です。

“行う者”の具体例には、実業家や政治家や技術者があり――
“表す者”の具体例には、芸術家やジャーナリストや学者があります。

 もちろん――
“行う者”が、行った結果、何かを表したり――
“表す者”が、表すために、何かを行ったり――
 というのは当たり前ですから――

“行う者”と“表す者”とを厳密に区分することはできません。

 が――
 だいたいの傾向として――
 世の中の全ての人が、どちらかに分類されうるということは――
 ほぼ間違いないでしょう。

 この分類は――
 当人が強く意識するものではなく――
 当人の周囲によって強く意識されるものです。

“行う者”が、

 ――私は“行う者”なのだ。

 と強く意識していることは稀ですが――
“表す者”が、

 ――あの人は“表す者”だよね。

 と強く意識されていることは、そんなに稀ではありません。

 いわゆる「レッテル」というものです。

 よって――
 もし“行う者”が“表す者”になろうとしたり、“表す者”が“行う者”になろうとしたりする場合には――
 細心の注意が求められます。

“行う者”と“表す者”との境界を越えることは、概して世の中を活性化させる起爆剤となりえますから――
 その意図や意欲は大いに称賛されうるのですが――

 でも――
 その境界を越えようとする場合には――
 周囲が、どのような目で自分の去就を見ようとしているかを――
 慎重に勘案しなければなりません。

 ――うむ! 見事な転身だ。間違いなく世の中を活性化させる!

 と称賛する人々が常に多数派とは限らないのです。

 もしかしたら、

 ――ふん! おとなしく自分の領分を守っていればよいものを!

 と侮蔑する人々が多数派かもしれません。

 ……

 ……

 もちろん――

 そういう侮蔑を恐れていたのでは――
 そもそも“行う者”と“表す者”との境界などは絶対に越えられませんから――

 慎重になりすぎてもいけないのですが――

 とはいえ――

 ほんの少しでよいから――
 慎重になれれば――

 つまらないことに足下をすくわれる危険性を、かなりの部分、取り除けると思うのです。