マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

空気をよむ、行間をよむ

 ――空気をよむ。

 と、

 ――行間をよむ。

 との違いについて――
 考えております。

 まず気づくのは、
(“空気”のほうが“行間”よりも流動的で主観的である)
 ということです。

“空気”は容易には固定されず、おそらく数分後には変化をします。
 また、その変化は、客観的には、わかりづらい――

 一方――
“行間”は固定されていて、いつまでも変化をしません――
 前後の文脈を担う文章が書き換えられない限りは、変化をしない――

 もちろん――
 文章が書き換えられれば、“行間”の変化は、ある程度は客観的にも、わかります。

 ……

 ……

 以上のことは――
 次のようにも、いいかえられるでしょう。

 すなわち、
(“行間”のほうが“空気”よりも手がかりや足がかりが多い)
 と――

 ……

 ……

 いま述べたように――

“行間”は前後の文脈を担う文章に由来します。

 そして――
 文章は言葉で記される――

 言葉は記号の集積です。
 記号の集積の中に“行間”の外形的な痕跡――つまり、“行間”をよむための手がかりや足がかり――を見出すことは――
 少なくとも言葉の扱いに慣れ親しんでいる者には――
 わりと容易です。

 一方――
“空気”は、その場に居合わせた人々の心情に由来します。

 心情は、あくまでも内在的であり、外形的には表出されにくいものですよね。
 表情や口調、仕草といった所作に辛うじて表出されうる程度でしょう。

 それら所作の中に“空気”の外形的な痕跡を見出すのは――
 容易ではありません。

 ……

 ……

 以上のことを――
 端的にいってしまえば、

 ――“空気”のほうが“行間”よりも圧倒的によみにくい。

 ということです。

 にもかかわらず――
 世間では、

 ――“空気”をよめ!

 とか、

 ――あいつは“空気”がよめない。

 などといわれることが多いのですね。

 少なくとも、

 ――“行間”をよめ!

 とか、

 ――あいつは“行間”がよめない。

 などといわれるよりは遥かに多い――

“行間”をよむのも大変なのに――
“空気”など、そう簡単によめるはずはないのですが――

 何とも不思議なことです。

 ……

 ……

 ただし、

 ――言葉の客観性や外形性の価値が忘れられ始めている。

 と考えれば――
 合点はいきます。