マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

後鳥羽上皇のこと(11)

 後鳥羽上皇は――
 承久の乱を起こす前に、鎌倉幕府を手なずけようとしていた――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 後鳥羽上皇による鎌倉幕府への懐柔策で――
 鍵になっていた人物がいます。

 鎌倉幕府の三代将軍・源実朝です。

 源実朝は――
 鎌倉幕府創始者で初代将軍・源頼朝の四男でした。

 四男ですから――
 生誕当初は将軍に就くとは目されていなかったはずです。

 が――
 源頼朝の後を継いだ兄の二代将軍・源頼家が失脚をしたため――
 12歳で将軍に叙されました。

 源実朝は、兄・頼家と同様、母親が源頼朝正室北条政子でした。

 よって――
 正当な後継者の資格をもっていました。

 さらにいうと――
 その北条政子の妹が乳母であったために――
 北条一門の手厚い後ろ盾を備えていた将軍といえます。

 この時代――
 誰が母親かよりも、誰が乳母かのほうが――
 その後の人生に大きな影響を及ぼしました。

 この三代将軍・源実朝に――
 後鳥羽上皇は、かなりの親近感を抱いていたようです。

 後鳥羽上皇にとって――
 源実朝は、本来であれば、目障りな武家政権の首班ですから――
 これを疎んでも、全然おかしくはなかったのですが――

 まったく疎もうとはせず――
 むしろ親しんで手なづけようとしました。

 後鳥羽上皇は――
 3歳で天皇に即位してから16歳で朝廷の実権を握るまで――
 ほぼ、

 ――傀儡(かいらい)

 といってよい天皇でした。

 そんな自分自身の境遇に――
 12歳で将軍に叙されて北条一門の傀儡となった源実朝の境遇を――
 重ねあわせたのかもしれません。

 その後――
 源実朝は少しずつ将軍としての存在感を発揮し始め――
 いつしか北条一門の影響力から自由になっていきます。

 源実朝が将軍になって間もなく――
 後鳥羽上皇は自分の近臣を源実朝の教育係として鎌倉に送り込んでいます。

 そんな人事の工夫が――
 思いのほかに功を奏したようです。

 後鳥羽上皇は――
 源実朝を手なずけることによって――
 鎌倉幕府の全体をトップダウン方式で制御下に置こう、と――
 考えていたのでしょう。

 が――

 その源実朝が――
 26歳の若さで暗殺されます。

 承久の乱が起こる2年半ほど前のことです。

 教育係として送り込まれた後鳥羽上皇の近臣も――
 一緒に暗殺されました。

 こうして――
 源実朝を通して鎌倉幕府支配下に組み込もうとする後鳥羽上皇の思惑は――
 あっけなく潰えました。

 10年以上を費やして――
 鎌倉幕府への懐柔策をじっくりと進めていった後鳥羽上皇にとって――
 この挫折感は――
 すぐに無力感へと転じていったように思います。

 そして――
 きのうの『道草日記』で述べた通り――
 大内裏の焼失と、その再建への抵抗が――
 無力感に苛まれる後鳥羽上皇に追い打ちをかけました。

 こらえきれずに――
 衝動に任せて鎌倉幕府を倒そうとした心の動きは――
 少なくとも後鳥羽上皇にとっては――
 自然な流れであったのでしょう。