マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

後鳥羽上皇のこと(12)

 承久の乱を起こした後鳥羽上皇の決断は半ば衝動的であったと考えられる――
 ということを――
 おとといの『道草日記』で述べました。

 さらに――
 そのように考えられる根拠として、

 ――後鳥羽上皇側の兵の数が、鎌倉幕府側の兵の数の10分の1ないし100分の1くらいであったらしいこと

 を挙げました。

 ……

 ……

 実は――

 もう1つ根拠があります。

 ……

 ……

 いいえ――

 より詳しく述べるなら――
 「もう2つ」です。

 ……

 ……

 それら根拠のうちの1つは、

 ――後鳥羽上皇側の軍を動かす総司令官が、すぐには決まらなかったらしいこと

 です。


 ――北条義時、追討――

 の直命を下したときに――
 誰が中心となって北条義時を成敗するのかは――
 しばらくの間、曖昧でした。

 最終的には――
 藤原秀康という後鳥羽上皇の近臣の武将が指名されるのですが――

 この武将は――
 血筋としては申し分はなかったものの――
 武将としての資質には少し欠けていた人物のようで――
 他の武将たちからの信望には乏しかったようです。

 そのような人物を総司令官に任命せざるをえなかったことは――
 あきらかに、

 ――準備不足の露呈

 といえましょう。

 実は――
 総司令官の人事については――
 他に有力な候補があったようなのです。

 が――
 その候補であった武将は――
 後鳥羽上皇承久の乱を起こす直前に病死したと考えられています。

 不運といえば、不運ですが――

 そうなった以上は――
 他に適任と思われる武将が現れるまで――
 じっと辛抱をする、というのも――
 一つの考え方であったはずです。

 その辛抱が――
 後鳥羽上皇にはできなかった――

 そんな気がします。

 一方――
 もう1つの根拠は、

 ――後鳥羽上皇側の軍が描いたはずの戦略が、ほとんど後世に伝わってこないこと

 です。

 古来より――
 京の都は、地政学的には、

 ――攻めやすく、守りがたい。

 ということが知られていました。

 その京の都を本拠として、鎌倉を相手に大戦(おおいくさ)を仕かける――
 というのが――
 後鳥羽上皇の決断でした。

 そうであれば――
 すぐさま東日本へ攻め込むのが常道でしょう。

 守りがたい本拠にこもっていては――
 勝てる戦いにも勝てません。

 百歩、譲って――
 何か腹案があって――

 あえて敵地に攻め込まずに――
 守りがたい本拠を守るのであれば――

 相当に入念な準備をしなければなりません。

 京から離れた適当な地点で強固な防衛ラインを引き――
 そこで長期的な消耗戦を仕かける必要があったのです。

 後鳥羽上皇の軍は――
 攻めることについても守ることについても、不徹底でした。

 直ちに鎌倉を目指して兵を進発させることもなく――
 後方支援を万全にして関所を固めることもありませんでした。

 そもそも――
 そのような戦略を具体的に検討した形跡が――
 少なくとも後鳥羽上皇の周辺からは――
 あまり感じられないのです。

 うかうかしているうちに――
 攻めることができなくなり、仕方なく守ることになったものの――

 結局、守り切ることができなかった――

 そんな無様な混乱が――
 後鳥羽上皇の軍の動きからは感じられるのです。

 これも、

 ――準備不足の露呈

 以外の何ものでもないでしょう。