マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

後鳥羽上皇のこと(13)

 承久の乱を起こした後鳥羽上皇の決断が衝動的であったように思える根拠として――
 きのうまでの『道草日記』で――
 以下の3点を挙げました。
 
 1) 後鳥羽上皇側の兵の数が、鎌倉幕府側の兵の数の10分の1ないし100分の1くらいであったらしいこと
 
 2) 後鳥羽上皇側の軍を動かす総司令官が、すぐには決まらなかったらしいこと
 
 
 3) 後鳥羽上皇側の軍が描いたはずの戦略が、ほとんど後世に伝わってこないこと
 
 これらのうち――
 2)と3)とは、1つにまとめることもできます。
 
 すなわち、
 
 ――総司令官がすぐに決まらなかったのだから、当然、戦略もすぐに決まるはずがなく、そのため、戦略が後世に伝わるわけもなかった。
 
 ということです。
 
 そう考えるならば――
 根拠は2つなのですが――
 
 僕は、あえて――
 2)と3)とを分けました。
 
 なぜか――
 
 ……
 
 ……
 
 それは――
 僕が、
後鳥羽上皇は、当初は自分が総司令官役を務めるつもりではなかったか)
 と思っているからです。
 
 ……
 
 ……
 
 後鳥羽上皇が文武両道を地で行く人物であったことは――
 2月15日の『道草日記』で述べました。
 
 なかでも――
 盗賊の首領を自ら出向いて懲らしめたという逸話があることは――
 注目に値すると思っています。
 
 後鳥羽上皇は――
 自他ともに認める、
 
 ――武に秀でた型破りな皇族
 
 であったと――
 僕は考えています。
 
 いま、
 
 ――型破りな
 
 と述べましたが――
 
 実は――
 「型破り」という表現は――
 適当ではありません。
 
 この国の皇族は――
 もともと武に秀でた一族であったはずなのです。
 
 少なくとも――
 皇族の祖先が、おそらくは現代の近畿地方で、武力によって覇を唱えたと考えられる時代には――
 紛れもなく、武に秀でた一族でした。
 
 そうでなければ――
 皇族とはなりえません。
 
 そうした武闘の覇者の血筋を如実に受け継いだ人物――あるいは、果敢に受け継ごうとした人物――
 それが後鳥羽上皇であった、と――
 僕は思っています。
 
 よって――
 後鳥羽上皇承久の乱を起こすと決断を下したときは、
 
 ――余が自ら兵を率いて鎌倉へ攻め下らん!
 
 と本気で思っていたのではないか、と――
 そんな気がするのです。
 
 が――
 
 ……
 
 ……
 
 もちろん――
 
 それは――
 現実的ではありませんでした。
 
 3歳で天皇となり、16歳で朝廷の実権を握って以降――
 ずっと京の都で雲上人として君臨を続けてきたような人物に――
 現実の軍隊を――それも、数千人から数万人規模の大きな軍隊を――操れるはずがありません。
 
 少数の供を連れ、腕力にものをいわせて盗賊たちを懲らしめるのとは――
 わけが違うのです。
 
 そのことが――
 
 後鳥羽上皇には――
 わからなかったのではないか――
 
 ……
 
 ……
 
 いいえ――
 
 正確には――
 ちょっと違います。
 
 本来なら――
 そんなことがわからないような後鳥羽上皇ではなかった――
 
 が――
 承久の乱を起こしたときの後鳥羽上皇は――
 なぜか――
 そんなこともわからなかった――
 
 なぜ、わからなかったのか――
 
 ……
 
 ……
 
 ――異常な心理に陥っていたからではないか。
 
 というのが――
 現時点での僕の答えです。
 
 ……
 
 ……
 
 続きは――
 
 あす以降に――