後鳥羽上皇の為人(ひととなり)が論じられる際に――
昨今――
まず、やり玉に挙げられるのは、
――通俗的な人物像
です。
曰く、
という主張です。
その根拠として示されるのが――
おとといの『道草日記』で述べた、
――後鳥羽上皇の個人的資質
です。
――後鳥羽上皇は文武に秀でた英邁な君主であった。時代の趨勢を察知できなかったはずがない。
というわけです。
が――
僕は――
この通俗的な人物像は――
(当たらずとも遠からず)
と思っています。
つまり、
(後鳥羽上皇が傲慢で無謀であったことと、英邁な君主であったこととは矛盾しない)
と思っているのです。
孤高と傲慢とは紙一重です。
果敢と無謀とも紙一重です。
おそらく――
後鳥羽上皇は――
自分自身に対し、常に、
――孤高で果敢
であることを課していたでしょう。
その心意気は――
後鳥羽上皇に批判的な視点でみたら、
――傲慢で無謀
なのです。
また、
――時代の趨勢を察知できなかった。
という点については――
僕は、
(否定しようのない事実――)
と感じています。
が――
そんな政権が、なぜ樹立され、存続しえたのかについては――
おそらく――
理解していなかったでしょう。
当時の鎌倉幕府は――
はっきりいえば、中途半端でお粗末な政権でした。
その統治機構は――
京の朝廷に比べれば、みすぼらしい限りです。
が――
そんな政権であっても――
それを支えようとしている人々が一定数はいて――
それら人々――具体的には、東日本の農地等の管理者(在地領主)たち――が、京の朝廷を素朴に忌避していたという事実――
この事実に、
(後鳥羽上皇は気づけなかった)
と――
僕は思います。
なぜ気づけなかったか――
……
……
農地等の管理者たちと膝詰めで語り合う機会が――
後鳥羽上皇にはありえなかったからです。
ありえました。
北条義時にも――
ありえました。
どちらにも――
十分すぎるほどに、ありえました。
が――
後鳥羽上皇にはありえなかった――
……
……
皇族の長が――
農地等の管理者たちと膝詰めで語り合うなど――
当時の常識では――
絶対にありえませんでした。
きのうの『道草日記』で述べたように――
この国の皇族は――
常軌を逸した高さの権威をもっていたからです。
……
……
もし――
後鳥羽上皇が東日本の農地等の管理者たちと膝詰めで語り合っていたら――
承久の乱は起こらなかったでしょう。
後鳥羽上皇は――
持ち前の“英邁な君主”としての資質をいかんなく発揮し――
自分自身が主導をする形で――
京の朝廷に代わる新たな政権を樹立したでしょう。
明治政府が行った、
――東日本への事実上の遷都
という決断を――
650年ほど早く下していたかもしれません。