きのうまでの『道草日記』で述べてきた通りです。
それだけ和歌に対し、並々ならぬ関心や熱意をもっていたわけです。
が――
たんに関心や熱意をもっていただけではなくて――
後世――
優れた歌人として、高く評価されてもいます。
後世の人々を惹きつけてやまない魅力が――
後鳥羽上皇の和歌には、あるのです。
一つだけ――
例を挙げましょう。
人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は
です。
百人一首に収められています。
おそらく――
後鳥羽上皇の残した和歌の中で、最も有名です。
この和歌については、様々な解釈がなされていますが――
僕は、さしあたり――
「をし」を「愛しい」ととり、「あぢきなく」を「味気なく」ととり、「物思ふ」を「思い悩む」ととります。
つまり――
直接的な歌意としては、
――人が愛しくも恨めしい。味気なく感じる、世を思うがゆえに思い悩む身は――
である、と――
考えるのです。
この直接的な歌意をもとに――
――人間という存在が愛しくもあり、恨めしくもある。実に味気ないものだ、天下国家のことを思うがゆえに思い悩む身は――
というふうに解釈をする人が多くいます。
この解釈は、
(たぶん間違っていない)
と、僕も思います。
が――
この作品の真価は、
(別のところにある)
と、僕は考えています。
(もっと、ぜんぜん違った風情の和歌とみなすこともできる)
ということです。
例えば――
「人」を「恋愛の相手」とみ、かつ「世」を「男女の関係」とみて、
――恋人が愛しくも恨めしい。なんと味気ないことか、この恋のことを思うがゆえに思い悩む身は――
といった解釈をする――
一度は恋仲になった女性――あるいは、恋仲になりかけた女性――に対し、今も一方的に思いを寄せているのだけれども、なかなか相手から良い反応が得られず、終日、悶々としている――
そんな男のありふれた恋愛心理を描いている――
という解釈です。
こういう解釈をすれば――
もはや完全に、
――恋の歌
です。
この作品は――
後鳥羽上皇が三十路に入って間もない頃に詠んだものと伝えられます。
承久の乱が起こる10年ほど前のことです。
この頃の後鳥羽上皇は――
僕の見立てによれば――
まだ“異常な心理”に苦しめられることもなく、心に余裕がありました。
もちろん――
京の朝廷と鎌倉の幕府との間で政治的な軋轢は様々にあって――
そうした事案の数々に思い悩んでいた日常はあったに違いありません。
この和歌が面白いのは――
そうした天下国家の大事に敢えて言及して詠んだとも――
また――
たんに片思いに悩んでいる一人の男として詠んだとも――
どちらともとれるように歌い上げているところです。
朝廷の一介の廷臣が詠んだのであれば――
たんなる不遜な歌でしょう。
が――
朝廷の最高権力者が詠んだのであれば――
ちょっと趣が変わってきます。
ある意味、
(奥ゆかしい)
とさえ感じます。