マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

後鳥羽上皇のこと(17)

 『新古今和歌集』は和歌集です。

 ――和歌集

 とは、和歌を編集したものです。
 単に、「歌集」ともいいます。

 和歌集の中で――
 とくに天皇上皇の命令で編集されたものを、


 といいます。

 『新古今和歌集』は、後鳥羽上皇の命令によって編集された勅撰和歌集です。

 その完成は――
 後鳥羽上皇、26歳の春でした。

 ……

 ……

 2月13日の『道草日記』で――
 僕は、

 ――『新古今和歌集』こそ、後鳥羽上皇の為人(ひととなり)に触れ、その足跡を辿る手がかりとなる。

 と述べました。

 つまり――
 それだけ『新古今和歌集』は後鳥羽上皇の影響を強く受けている――
 ということです。

 『新古今和歌集』は、当時、8つめの勅撰和歌集でした。

 それまでの勅撰和歌集は――
 天皇上皇が、和歌に通じた者たちに、優れた作品の選別や編集を命じるだけでした。

 天皇上皇が自ら選別や編集に携わることは、ありませんでした。

 が――
 後鳥羽上皇は、自ら選別や編集に携わったといいます。

 その関わり方が、あまりにも熱心であったので――
 選別や編集を命じられた歌人たちは、すっかり辟易したと伝えられています。

 ――ひとたびご下命となったからには、私たちに全てをお任せ頂きたいのだが……。

 といった心情でしょう。

 とにもかくにも――

 こうして、後鳥羽上皇の肝いりで、2000首ほどの和歌が選別、編集され――
 『新古今和歌集』は成立をみたのですが――

 その2000首の中には――
 後鳥羽上皇自身の詠んだ和歌が30首あまり含まれているそうです。

 作品を選別しておきながら――
 自分の作品を、そこに加える――

 さすがに、

 ――これは、よくない。

 と思い直したらしく――

 晩年――
 後鳥羽上皇は――
 承久の乱で敗れて配流にされた島で――
 『新古今和歌集』の改訂版を著します。

 その改訂版の巻末で、

 ――2000首は多すぎた。しかも、自分の作品を30首も入れたのは間違いであった。

 と反省の弁を述べています。

 かなり率直な弁です。

 結局――
 改訂版では、400首ほど削って、1600首ほどにしたそうですが――

 その中に、後鳥羽上皇の作品が何首くらい残っているのかは――
 ちょっと気になりますよね。

 ネットで調べてみましたが――
 わかりませんでした。

 もし、30首のほとんどが残っていないとすると――
 晩年の後鳥羽上皇は、少なくとも承久の乱を起こした頃の後鳥羽上皇とは、

 ――別人のようだ。

 といえるでしょう。

 ……

 ……

 いずれにせよ――

 『新古今和歌集』への関わり方を追っていくと――
 後鳥羽上皇の為人が、けっこうリアルに伝わってきます。