きのうまでの『道草日記』で――
両極端の考え方を示しました。
1つは、
――乱を起こす1~2年前である。
という考え方で――
もう1つは、
――物心がついたときである。
という考え方です。
……
……
常識的には――
これら2つの折衷案が受け入れやすいと感じます。
すなわち、
――物心がついたときから何となく考えてはいたが、乱を起こす1~2年前になって、にわかに本気になって決めた。
という考え方です。
きのうの『道草日記』で触れたように――
この劣等感が――
思春期の頃に頂点に達し――
また、世間知らずであったことも手伝って、
――いつか鎌倉の奴らを根こそぎ薙ぎ払って完全無欠の君主になる。
と息巻いていたのだけれども――
しだいに世間のことがわかってくるになって――
鎌倉幕府を滅ぼすより、手なずけるほうが得策であることに気づいたので――
十分な歳月をかけ、せっせと懐柔を試みたものの――
結局は手なずけるに至らず――
その無力感から――
しだいに思春期の頃の劣等感がよみがえってきて――
そこで――
大内裏の焼失と、その再建への抵抗とを目の当たりにし――
半ば衝動的に――
承久の乱を起こすことに決めた――
そういう考え方です。
――半ば衝動的に――
というところには――
数々の異論があるでしょうが――
僕は、
(それなりに衝動的であったに違いない)
と考えています。
その理由は――
実際の承久の乱で――
後鳥羽上皇に味方をした兵の数が――
鎌倉方の兵の数に比べて極端に少なかったからです。
後鳥羽上皇が動かした兵の数は――
ざっと、1,000~3,000くらい――
これに対し――
鎌倉方が動かした兵の数は――
少なく見積もっても、10,000~30,000――
その数、190,000です。
つまり――
鎌倉方の兵は10倍から100倍くらいも多かった――
ということです。
これほどの大差がついたからには――
大差をつけられた側の準備不足を指摘しないわけにはいきません。
では――
なぜ準備不足に陥ったのか――
……
……
それは、
――トップの決断が衝動的であったから――
と考えるのが自然です。
つまり――
後鳥羽上皇の決断が、少なからず衝動的であった――
そういうことです。