マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

後鳥羽上皇のこと(10)

 後鳥羽上皇承久の乱を起こすと決めた時期について――

 きのうまでの『道草日記』で――
 両極端の考え方を示しました。

 1つは、

 ――乱を起こす1~2年前である。

 という考え方で――
 もう1つは、

 ――物心がついたときである。

 という考え方です。

 ……

 ……

 常識的には――
 これら2つの折衷案が受け入れやすいと感じます。

 すなわち、

 ――物心がついたときから何となく考えてはいたが、乱を起こす1~2年前になって、にわかに本気になって決めた。

 という考え方です。

 きのうの『道草日記』で触れたように――
 後鳥羽上皇は、自分が三種の神器を欠いて即位したことに劣等感を抱いていたようです。

 この劣等感が――
 思春期の頃に頂点に達し――
 また、世間知らずであったことも手伝って、

 ――いつか鎌倉の奴らを根こそぎ薙ぎ払って完全無欠の君主になる。

 と息巻いていたのだけれども――

 しだいに世間のことがわかってくるになって――
 鎌倉幕府を滅ぼすより、手なずけるほうが得策であることに気づいたので――

 十分な歳月をかけ、せっせと懐柔を試みたものの――

 結局は手なずけるに至らず――

 その無力感から――
 しだいに思春期の頃の劣等感がよみがえってきて――

 そこで――
 大内裏の焼失と、その再建への抵抗とを目の当たりにし――

 半ば衝動的に――
 承久の乱を起こすことに決めた――

 そういう考え方です。

 ――半ば衝動的に――

 というところには――
 数々の異論があるでしょうが――

 僕は、
(それなりに衝動的であったに違いない)
 と考えています。

 その理由は――

 実際の承久の乱で――
 後鳥羽上皇に味方をした兵の数が――
 鎌倉方の兵の数に比べて極端に少なかったからです。

 後鳥羽上皇が動かした兵の数は――
 ざっと、1,000~3,000くらい――

 これに対し――
 鎌倉方が動かした兵の数は――
 少なく見積もっても、10,000~30,000――

 鎌倉幕府の公式の歴史書である『吾妻鏡』によれば――
 その数、190,000です。

 つまり――
 鎌倉方の兵は10倍から100倍くらいも多かった――
 ということです。

 これほどの大差がついたからには――
 大差をつけられた側の準備不足を指摘しないわけにはいきません。

 では――
 なぜ準備不足に陥ったのか――

 ……

 ……

 それは、

 ――トップの決断が衝動的であったから――

 と考えるのが自然です。

 つまり――
 後鳥羽上皇の決断が、少なからず衝動的であった――

 そういうことです。