マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

匈奴(7)

 匈奴の君主・冒頓(ぼくとつ)が、漢の初代皇帝・劉邦(りゅうほう)を、その命を奪う寸前まで追いつめて以降、70 年ほどが過ぎると――

 形勢は逆転を始める。

 

 匈奴は漢に対し、徐々に劣勢に転じていった。

 

 劉邦の子や孫に当たる皇帝たちは、匈奴に対し、父や祖父に倣って平身低頭の外交に徹したが――

 曾孫の皇帝・劉徹(りゅうてつ)――武帝(ぶてい)――は、違った。

 

 おそらくは、

 ――曾祖父の恥を雪がん。

 との思いが強かった。

 

 当時の官軍が有能な将軍たちに恵まれたこともあって――

 漢の軍は匈奴の軍を討ち破り、その版図を奪っていった。

 

 漢の軍は、かつて初代皇帝の命が脅かされたくらいに苦戦をしたのに――

 なぜ、この時は討ち破ることができたのか。

 

 ……

 

 ……

 

 有能な将軍たちの采配力だけではなくて――

 漢の国力の増勢と兵器の改良とが主因であったと考えられる。

 

 劉邦の子や孫が平身低頭の外交に徹しているうちに――

 漢の産業が活性化をし、軍備が増強をされた。

 

 例えば――

 鏃(やじり)が青銅製から鉄製に変わった。

 

 匈奴は遊牧の社会である。

 草原で従来の暮らしに満足をしている限り、産業や軍備の技術革新には乗り遅れる。

 

 漢を脅かした匈奴は、草原で安住をしていた。

 

 そして――

 少しずつ衰退を始める。

 

 紀元1世紀――

 内紛が高じ、匈奴北匈奴南匈奴とに分裂をした。

 

 北匈奴は、紀元1世紀のうちに、モンゴル高原を去って人類史から消え――

 南匈奴は、紀元3世紀に、中国大陸の皇朝の一つに吸収・合併をされた。

 

 遊牧民の国家の崩壊の多くが、そうであるように――

 匈奴の崩壊は、呆気なかった。

 

 『随に――』