匈奴の君主・冒頓(ぼくとつ)は――
漢の初代皇帝・劉邦(りゅうほう)をなぜ見逃したのか。
……
……
――最初から殺すことを考えていなかったから――
と考えるのが自然であろう。
あの時、冒頓が考えていたのは――
おそらく、
――漢の皇帝以下、農耕民たちを懲らしめる。
ということであった。
中国大陸の農耕民たちからすると――
遊牧民たちは、北から襲って来て、農地を荒らし、収穫物を奪っていく。
遊牧民たちをこそ懲らしめる必要があった。
が――
ユーラシア大草原の遊牧民たちからすると――
農耕民たちは、南から移り住んで来て、草原を耕し、農地に変えていく。
どちらの民にも、いい分はあった。
冒頓が劉邦に弁えさせたかったことは、
――中国大陸の農耕民たちに、草原と農地との境界を不用意に侵すのをやめさせよ。
ということであろう。
裏を返せば――
そこさえ弁えてくれれば、
――それ以上の手出しはせぬ。
ということではなかったか。
……
……
以後――
漢と匈奴とは和親を保つ。
匈奴の君主は漢の皇帝の娘を妻にする――
漢は匈奴に毎年、品を贈る――
などの条件が設けられた。
その「和親」の実態は――
漢が匈奴に対し、
――平身低頭に徹する。
というものであった。
漢の皇帝以下・文武百官は、むろんのこと――
中国大陸の農耕民たちにとっても――
屈辱的な恭順であったに違いない。
『随に――』