マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

匈奴(2)

 匈奴が、モンゴル高原を統べ、ユーラシア大草原の東部に帝国を興したのは、紀元前2世紀の序盤である。

 

 それから約 1,500 年後――

 モンゴルが、同様にユーラシア大草原の東部に帝国を興した。

 

 モンゴルが、ロシア平原を版図に組み込み、ユーラシア大草原の全域を支配下に置くことで、“草原の帝国”を築き上げたのに対して――

 匈奴が、ロシア平原まで版図を広げることはなかった。

 

 匈奴とモンゴルとで――

 何が違ったのか。

 

 ……

 

 ……

 

 中国大陸への侵略の成否である。

 

 中国大陸を――

 モンゴルは版図に収められた。

 

 匈奴は版図に収められなかった。

 

 いや――

 

 ――収めようとしなかった。

 が真相ではないか。

 

 その好機はあった。

 

 匈奴モンゴル高原を統べた直後である。

 

 中国大陸では――

 漢が興り、初代皇帝・劉邦(りゅうほう)が全土を統べていた。

 

 この劉邦を――

 匈奴の君主・冒頓(ぼくとつ)が襲った。

 

 冒頓は、劉邦の命を文字通りに脅かしたのである。

 

 何が起こったのか。

 

 匈奴と漢との間で、大規模な国境紛争が起こり――

 これを鎮めるため、劉邦は親征に出た。

 

 冒頓は、あえて弱兵の姿を劉邦に晒し、

 ――匈奴、恐れるに足らず。

 と侮らせた。

 

 劉邦が直率の騎兵で強襲を試みたところ――

 弱兵が退いた。

 

 劉邦の目には、慌てふためき、逃げ出したように映った。

 自然、深追いとなった。

 

 この時、漢の軍の主力は歩兵だった。

 歩兵は騎兵を追いかけられなかった。

 

 騎兵だけが突出をした。

 

 それを――

 匈奴の強兵が取り囲んだ。

 

 騎兵の一人であった劉邦も取り囲まれた。

 

 匈奴の弱兵は囮だった。

 

 こうした戦法は、1,500 年後のモンゴル軍が得意にしていた。

 おそらくはモンゴル高原の戦史で磨き上げられた戦法である。

 

 この計略に遭い、例えばロシア平原では、ルーシ諸侯の多くが戦死を遂げた。

 劉邦も、同様の運命を辿ったとして、何ら、おかしくはなかった。

 

 そうなっていれば――

 中国大陸の歴史は、もちろんのこと――

 ユーラシア大草原の歴史が大きく変わっていたに違いない。

 

 が――

 実際には、そうはならなかった。

 

 なぜか。

 

 ……

 

 ……

 

 『随に――』