マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

了解可能性(8)

 ――了解

 の基準となる、

 ――比較の対象

 が、

 ――自分自身

 である――

 ということが、

 ――了解可能性

 に――

 仄かな普遍性を齎(もたら)す。

 

 その普遍性は――

 決して十分ではない。

 

 が――

 皆無でもない。

 

 この、

 ――比較の対象

 が、

 ――自分自身

 ではなく、

 ――自分が昔から良く知っている者

 や、

 ――書籍や映像などを通して良く知っている者

 であれば――

 おそらく――

 その普遍性は皆無となる。

 

 これらの者が基準となるならば――

 その時――

 その、

 ――了解可能性

 は、単なる

 ――印象

 と区別が付かぬ。

 

 ……

 

 ……

 

 基準となる、

 ――比較の対象

 が、

 ――自分自身

 であることの重要性は――

 例えば、

 ――文化依存症候群

 での“異常”性の見極めを考えれば――

 わかりやすい。

 

 ――文化依存症候群

 とは、

 ――特定の地域や民族、文化圏において見つかりやすい心の病

 を指す。

 

 この病の“異常”性を見極めるには――

 まずは、自分自身が、その地域ないし民族、文化圏における基本的な習慣や背景的な思想などを十分に弁えておく必要がある。

 

 その弁え方が足らなければ、

 ――文化依存症候群

 の“異常”性を実際よりも過剰に捉えてしまうだろう。

 

 例えば――

 その地域ないし民族、文化圏では、

 ――正常

 と見做される言動まで――

 うっかり、

 ――異常

 と見做してしまう――

 ということだ。

 

 その弁え方が十分に深いかどうか、あるいは、浅くないかどうか――

 その是非が、本当の意味で判るのは――

 唯一、

 ――自分自身

 について、である。

 

 ――自分自身

 以外の――

 例えば、

 ――自分が昔から良く知っている者

 や、

 ――書籍や映像などを通して良く知っている者

 が――

 特定の地域や民族、文化圏における基本的な習慣や背景的な思想などを十分に弁えているかどうかなどは――

 単なる、

 ――印象

 ならば、ともかく――

 その精確な当否は――

 およそ判るはずがない。

 

 『随に――』