マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“知識”から“知恵”を得、“経験”から“技術”を得る

 ――教育

 について考えていると――

 以下のことが、しぜんと気になってきます。

 

 ――知識

 から、

 ――知恵

 を得るには、どうしたらよいか――

 

 ――経験

 から、

 ――技術

 を得るには、どうしたらよいか――

 

 この2点です。

 

 ……

 

 ……

 

 基本的には――

 これらの極意は――

 おとといの『道草日記』で述べたように――

 先達が後進に伝えられることではなく――

 

 先達は――

 ただ、

 ――範を垂れる

 ことによって――

 その極意の外観を示すことしかできません。

 

 誤解を恐れずにいえば――

 後進は先達の範をみて――

 自らの意志で、

 ――知識

 から

 ――知恵

 を得ようとし――

 自らの工夫で、

 ――経験

 から、

 ――技術

 を得ようとするしかないのです。

 

 もちろん――

 それら“知恵”や“技術”を首尾よく得られる後進と、そうでない後進とがいます。

 

 その境目は――

 おそらくは、

 ――素質の有無

 であったり、

 ――運・不運

 であったりするでしょう。

 

 それらの違いについて、もう少し詳しく述べるならば――

 それは、しっかりとした、

 ――自我

 が芽生えているかどうかの違いであり――

 かつ、くっきりとした

 ――自己

 が見定められているかどうかの違いであるといえます。

 

 ――自我の顕現

 や、

 ――自己の確立

 は、

 ――確固たる内省

 の証(あかし)といえます。

 

 自分で自分を振り返っているときに――

 振り返っている自分が「自我」であり、振り返られている自分が「自己」です。

 

 ――自我

 が定まっていなければ、

 ――知恵

 は捻りだせず、

 ――技術

 は身につかないでしょう。

 

 また、

 ――自己

 を弁えていなければ――

 それら“知恵”や“技術”は、たんなる、

 ――独善

 や、

 ――拘泥

 に陥り、“知恵”や“技術”にふさわしい普遍性を備えるには至らないでしょう。

 

 “確固たる内省”のできる者が、しっかりとした“自我”で、くっきりとした“自己”をとらえることができ――

 その内省の力で、

 ――確かな知恵

 を示し、

 ――巧みな技術

 を施せるようになる――

 

 そういうことではないでしょうか。