――自我の周りに自己があり、自己の周りに社会があり、社会の周りに自然がある。
という図式を意識しながら、
――世界
という言葉を用いるのがよい――
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
世界は――
極論すれば、
――自我以外の全て
です。
いわゆる自意識過剰の精神状態にある人にとっては、
――世界は自己のみで構成されている。
とさえ――
いってよいでしょう。
ひところ、
――セカイ系
という物語類型が対抗文化等の論壇で盛んに議論されました。
ここでいう「セカイ」は――
通常の「世界」とは違って――
物語の主人公や主人公に身近な人物たちが日常的に暮らす生活環境のみを指します。
主人公の自己は十分すぎるくらいに描かれる一方――
社会や自然の描かれ方は不十分で、たいていは主人公が所属する共同体の対人関係や主人公が知覚しうる自然風景の断片が描かれます。
それら共同体の対人関係や自然風景の断片が、物語の中では「世界」と呼称されることが多いために、
――それは「世界」ではなく、「セカイ」だよね。
と半ば揶揄されているようです。
が――
僕は、
(「セカイ」も「世界」の1つだ)
と考えています。
(少々いびつかもしれないが、れっきとした「世界」であることに変わりはない)
と――
……
……
そもそも、「世界」は「自我」から派生した概念です。
自我が存在していなければ、世界は自我の対象とはなりえず、世界は認識されえない――
一方、「自我」も「世界」に強く依拠した概念です。
世界が存在していなければ、自我と非自我とは区別されえず、自我は標識されえない――
自我も世界も――
それ単独では成立しえないのですね。
自我があってこその世界であり、世界があってこその自我であるのです。