マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

他者の自我を、人は「魂」と理解する

 ――他者の自我を、人は、しばしば「魂」と理解する。

 と――
 僕は考えています。

 ――自我

 というのは――
 おとといの『道草日記』で述べたように――
 自分で自分を内省しているときの主体です。

 そのときの客体が、

 ――自己

 ですね。

 このように――
 通常、「自我」と「自己」とは明確に区別されます。

 ところで――

 ……

 ……

 ――魂

 というのは――
 この「自我」と深く関わっている、と――
 僕は考えています。

 いきなり「魂」といわれると――
 夜の闇に浮かぶ火の玉のようなものを――
 うっかり想像してしまいがちです。

 もし、魂が火の玉なら――
 たとえ体が失われても、魂単独で存在しうる――
 と仮定したくなるのが人情ですよね。

 が――
 実際には――
 体が失われたら、魂も失われるというのが――
 今日の自然科学や自然哲学がもたらす経験則です。
 
 人は――
 自分が心の中に描く他者の自我を「魂」と感じているに過ぎないでしょう

 少なくとも、現代科学(脳・神経科学)や現代哲学(現象学)の知見に基づけば――
 そう、いわざるをえないのです。

 ……

 ……

 きのうの『道草日記』で述べたように――
 自我の周りには世界があります。

 たとえ、その世界が、どんなに陳腐で軽薄な世界であったとしても――
 世界であることに変わりはありません。

 魂とは、

 ――世界に包まれた自我である。

 といえます。

 そして――
 もし、魂に軽重があるならば――

 それは――
 その自我が背負っている世界の軽重に他ならないでしょう。

 自我は、おそらくは点のようなもので――
 重くも軽くもないでしょう。