――しっかりとした“自我”で、くっきりとした“自己”をとらえる力――つまり、“確固たる内省”の力――こそが“批判的思考”を可能にする。
ということを――
おとといの『道草日記』で述べています。
それは、
――批判的思考
が――
きのうの『道草日記』で述べた通り――
――思考の要所で物事の評価に関わってくる。
という性質をもつ以上は――
当たり前のことです。
例えば、
――前提の設定
において――
前提に用いる事実が考えの出発点として優れているかどうかに慎重な検討を加えるのは、あくまでも自分自身の“自我”であって、誰か権威のある他者ではないのです。
また、
――結論の導出
において――
結論に表れる主張が考えの終着点として劣っていないかどうかに慎重な反省を加えるのは、あくまでも自分自身の“自我”であって、誰か権威のある他者ではないのですし――
その際の反省の対象となるのは、あくまでも自分自身の考えの途中経過――つまり、“自己”の一部ないしは“自己”から派生した物事――であって、正体がわからない他者の考えの途中経過――つまり、他者の一部ないし他者から派生した物事――ではないのです。
つまり――
しっかりとした“自我”で、くっきりとした“自己”をとらえられていれば――
それら検討や反省は、的を射た確かな点検となりうるし――
そうでなければ――
それら検討や反省は、的を外した半端な点検となりがちである――
といえるでしょう。
このような“自我”や“自己”でなされる批判的思考が、
――確かな知恵
を示したり、
――巧みな技術
を施したりするのに有用であることは――
自明です。
よって、
――確かな知恵
や、
――巧みな技術
を教育の主眼とみなすならば、
――批判的思考
は教育の素材として最適である――
といえます。
裏を返すと――
――批判的思考
を教育の素材として最適とみなすのは、
――確かな知恵
や、
――巧みな技術
を教育の主眼とみなしているからです。
――豊かな知識
や、
――色々な経験
を教育の主眼とみなすなら、
――批判的思考
は教育の素材として見すごされることになります。