教育の素材として、
――批判的思考
が最適かどうかは――
教育の目標を、
――確かな知恵
や、
――巧みな技術
に置くかどうかによる――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
もし――
教育の目標を、
――豊かな知識
や、
――色々な経験
に置くのなら、
――批判的思考
は教育の素材として最適ではなくなる――
ということも、述べました。
現代日本の学校教育は――
英語圏の教育事情に詳しい人たちからは――
しばしば、
――“批判的思考”を扱っていない。
といわれ、非難をされています。
たしかに、その通りで――
僕が見る限り――
例えば、教科書などをみると、必ずしも“批判的思考”を扱っていないわけではないのですが――
その扱いが軽いことは間違いなく――
そして、何よりも――
学校教育に携わっている人たちの多く――つまり、教員や児童・生徒、そして児童・生徒の保護者の多く――が、ほとんど“批判的思考”を念頭に置いていないことは、明白でしょう。
理由は2つくらい考えられます。
1つは――
教員や児童・生徒の保護者の多くが、自分が児童・生徒であったときに、ほとんど“批判的思考”に触れていないからです。
人は、
――自分の知っている教育こそが最適だ。
と、つい誤解をしてしまいがちです。
教員や児童・生徒の保護者の多くは、“批判的思考”を積極的ないし意識的には学んできませんでした。
よって、それを扱う教育が最適とは、どうしても思えないのです。
もう1つは――
3日前の『道草日記』で述べたように、
――批判的思考
という言葉の響きが悪いことです。
日本語の日常の感覚に基づく限り、
――批判的思考
では、どうしても、
――人の欠点や短所をあげつらう思考
というふうに響いてしまいます。
――なに、なに? 批判的思考ができていないって? もちろん、それで結構だよ。あなたみたいに人の批判ばかりしているような者に、私たちはなりたくないのでね。
といった的外れの皮肉を呼び込みやすいのです。
もし、
――批判的思考
が、
――本質的思考
と訳されていたら――
状況は、少し違っていたでしょう。
少なくとも、
――なに、なに? 本質的思考ができていない? もちろん、それで結構だよ。あなたみたいに物事の本質ばかり突いているような者に、私たちはなりたくないのでね。
といった的外れの謙遜を呼び込むことにはならないでしょう。