マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

思考の神髄は“懐疑的思考”に宿る

 ――懐疑的思考

 は狭くて暗く、

 ――批判的思考

 は広くて明るい、ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 7月15日の『道草日記』で――

 僕は、

 ――「批判的思考」は「本質的思考」と呼ぶことを推したい。

 と述べました。

 

 これにならえば、

 ――「懐疑的思考」は「些末的思考」ないし「表面的思考」と呼べばよい。

 ということになります。

 

 あるいは、

 ――「本質」の対義語は「現象」である。

 との考え方をとれば、

 ――「懐疑的思考」は「現象的思考」と呼べばよい。

 と――

 

 ……

 

 ……

 

 たしかに――

 その通りなのですが――

 

 だからといって、

 ――“懐疑的思考”は取るに足らない些事であるか。

 と訊かれれば――

 

 (それは違う)

 と、僕は考えています。

 

 むしろ――

 見方によっては、

 ――“懐疑的思考”のほうが大事かもしれない。

 と――

 

 ……

 

 ……

 

 ――神は細部に宿る。

 といったのは――

 20世紀アメリカの建築家ミースですが――

 

 それと似たような意味で、

 ――思考の神髄は“懐疑的思考”に宿る。

 といってもよいかもしれない、と――

 僕は思っています。

 

 ――批判的思考

 は、できないけれど、

 ――懐疑的思考

 なら、できる――

 という人はいます。

 

 日本人の多くは、そうです。

 

 一方、

 ――懐疑的思考

 は、できないけれど、

 ――批判的思考

 なら、できる――

 という人はいません。

 

 ――懐疑的思考

 が、できないのなら、

 ――批判的思考

 も、できるわけがないのです。

 

 あるいは、

 ――“懐疑的思考”が悪質なら、“批判的思考”も悪質に違いない。

 といってよいでしょう。

 

 あるいは、

 ――“懐疑的思考”が良質なら、“批判的思考”も良質ではなかろうか。

 と――

 

 ――思考の神髄は“懐疑的思考”に宿る。

 というのは――

 そうした意味です。