マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“懐疑的思考”は武道や芸能の“型”――

 ――日本語圏の高学歴の人たちが、ここ10年くらい、僕のいう“懐疑的思考”の大切さを熱心に説いている。

 ということを――

 8月2日の『道草日記』で述べました。

 

 必ずしも高学歴の人たちだけが説いているわけではなく――

 どちらかというと、

 ――日本の教育現場に深く関わっている人たち、あるいは、深く関わっていた人たち、ないしは、深く関わろうとしている人たち

 というほうが、しっくりくるかもしれません。

 

 こういう傾向は――

 僕にいわせれば、自然なことです。

 

 僕は、

 (日本の教育現場は、僕のいう“懐疑的思考”を、意識的か無意識的かはともかく、いわゆる日本的な発想にもとづき、重視をしている)

 と考えています。

 

 その「日本的な発想」とは――

 日本古来の武道や芸能における、

 ――型(かた)

 の発想です。

 

 ――型

 は、

 ――形

 とも書き――

 いわゆる規範となる方式や動作を指します。

 

 過去に傑出をした名人などが生み出し、その後、後進たちによって受け継がれてきた技法や表現であることが多い――

 とされています。

 

 “型”は、ときの師匠から、ときの弟子へと、しばしば口伝で授けられ――

 場合によっては、特定の弟子のみに授けられました。

 

 その背景には、

 ――わかる者だけが、わかればよい。

 あるいは、

 ――授けるに値する者のみに授ける。

 という考えがあったように思います。

 

 日本の教育現場における“懐疑的思考”の扱いも――

 まさに、

 (そんな感じ――)

 と、僕は思います。

 

 ……

 

 ……

 

 ――わかる者だけが、わかればよい。

 

 ――授けるに値する者のみに授ける。

 

 そうした考えが、良いか悪いかは別にして――

 

 まあ、僕個人は、どちらかといえば、悪い考えではないかと思いますが――

 

 とにかく――

 そのような考えにもとづいて――

 日本の教育現場では“懐疑的思考”が授けられ続けてきた――

 ということです。

 

 いわゆる受験勉強の実態――

 問題集や参考書が受験生に勧めている内容や予備校・学習塾の指導法の在り方は、一見、没個性的で非生産的な苦行を思わせますが、

 ――武道や芸能の“型”が授けられている。

 とみなせば、

 ――さもありなん。

 といえるでしょう。