――ひとたび“懐疑的思考”が行えるようになったなら、“懐疑的思考”の限界を知り、“懐疑的思考”に拘泥をしない自由な思考を行うようになってほしい。
という示唆が、日本の教育現場の狙いであるようだ――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
そうした“自由な思考”の1つに――
いわゆる、
――批判的思考
が含まれることは明らかです。
日本の教育現場の指導者たちは――
決して、子どもたちが“批判的思考”の習得を拒んだり妨げようとしたりしているつもりはなく、
――まずは“懐疑的思考”の習得に励みなさい。
といっているつもりなのです。
それは――
きのうの『道草日記』で触れた、
――守(しゅ)・破(は)・離(り)
の思想の影響を受けているのでしょう。
例えば――
小学生に“批判的思考”の何たるかを伝えることは――
“守”が疎かなうちに、“破”や“離”を促すような愚行であると、無意識のうちに考えている――
ということです。
相手が小学生なら――
たしかに的外れではないかもしれません。
が――
相手が高卒者なら――
同じように考えるのは、さすがに、いきすぎです。
例えば――
医療系の専門学校で、“批判的思考”に則った教育を行おうとすると――
ほぼ必ずといってよいほどに、
――そんな教育をしても効果はない。
との指摘を受けます。
その際に、
――国立大の医学部でするなら、効果はあるかもしれない。
との注釈が入ることも少なくありません。
つまり、
――国立大の医学部の学生なら、厳しい受験勉強をやりとげているので、“懐疑的思考”の“型”は守れているはずだ。よって、その“型(かた)”を破らせ、その“型”から離し、“批判的思考”に取り組ませても、効果はあるかもしれない。
ということですね。
こうした指摘は、あきらかに、いきすぎです。
社会に出たら――
否が応でも“批判的思考”が求められる現実があります。
“懐疑的思考”だけで生き抜けるほどに、社会は甘くない――社会は学校とは違うのです。
そうした現実を踏まえると――
日本の教育現場の狙いと考えられる示唆――
つまり、
――ひとたび“懐疑的思考”が行えるようになったなら、“懐疑的思考”の限界を知り、“懐疑的思考”に拘泥をしない自由な思考を行うようになってほしい。
という示唆は――
いかにも無力であるように、僕には感じられます。
厳しい受験勉強をやりとげていようが、やりとげていまいが――
“批判的思考”に則った教育が、少なくとも高卒者には、必要であるはずです。