マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

小学生か高卒者かは問題ではない

 ――“批判的思考”に則った教育は、少なくとも高卒者には、必要であるはずだ。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 本当は、

 ――小学生にも、必要であるはずだ。

 と、僕は思っています。

 

 それは――

 いわゆる、

 ――守(しゅ)・破(は)・離(り)

 の思想の出自に遡っても明らかでしょう。

 

 この思想は『利休道歌』に端を発していると考えられています。

 『利休道歌』というのは、和歌集です。

 戦国期から織豊期にかけての茶人・千利休が残した教えをまとめている、とされます。

 その中に、

 

  規矩(きく)作法

  守り尽くして

  破るとも

  離るるとても

  本を忘るな

 

 という和歌があるそうです。

 

 ――規矩(きく)

 は、本来は、ぶんまわし(コンパス)や物差しのことを指しますが――

 転じて、

 ――手本、規則、基準

 といった意味にもなります。

 

 つまり、

 ――守・破・離

 の思想は、

 ――“破”や“離”においても、“守”が基本となる。

 という教えに依っているのですね。

 

 裏を返せば、

 ――“守”の基本を念頭におきつつ、“破”や“離”の創造に邁進をせよ。

 という示唆に通じえます。

 

 ――いつまでも“守”に拘っていてはいけない。“守”を経て“破”や“離”に励め。

 の指針が暗に示されている、ともいえます。

 

 そうであるならば、

 ――“批判的思考”は、場合によっては、小学生に教えてもかわまない。

 といえます。

 

 ――いつまでも“懐疑的思考”に拘っていてはいけない。“懐疑的思考”を経て他の思考に励め――例えば、“批判的思考”に励め。

 ということです。

 

 つまり――

 “批判的思考”に則った教育が必要かどうかに年齢は無関係である、ということです。

 

 小学生か高卒者かは問題ではない――

 留意をするべきは、“懐疑的思考”ができるようになっているかどうか、です。

 

 そして――

 その「できるようになっている」も「完璧に――」である必要はないでしょう。

 

 ――「ある程度に――」で十分である。

 と、僕は考えています。