マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“懐疑的思考”と“守・破・離”の思想と

 ――日本の教育現場では、僕のいう“懐疑的思考”が武道や芸能の“型”のようなものとみなされているようだ。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 要するに――

 日本の学校では――

 英語圏で重視をされる、

 ――批判的思考

 が、ほとんど扱われず、受験勉強でおなじみの、

 ――懐疑的思考

 ばかり扱われるのは――

 日本古来の武道や芸能における修行や修練の感覚に照らせば、不自然なことではない――

 ということです。

 

 日本古来の武道や芸能の世界では――

 師匠は弟子に、まず、

 ――型(かた)

 の習得を求めます。

 

 その“型”を十分に身につけ、完璧に守れるようになった後で――

 その“型”を破り、“型”から離れ、新たな“型”を探っていくように暗に促す――

 そうした方針が採られていたといいます。

 

 いわゆる、

 ――守(しゅ)・破(は)・離(り)

 の思想です。

 

 簡単にいうと、

 ――守

 とは、師匠の“型”を信じ、他の師匠の“型”には目もくれず、その体得を目指すことであり、

 ――破

 とは、師匠の“型”を疑い、時に他の師匠の“型”と比べ、その良し悪しを判じることであり、

 ――離

 とは、師匠の“型”を忘れ、他の師匠の“型”も忘れ、独自の“型”を作り上げていくことである――

 といえます。

 

 こうした思想については、

 ――師匠が弟子に自分の“型”を押し付けている。

 という窮屈な一面に、つい注意が向きがちですが――

 

 大切なことは――

 弟子は、ひとたび師匠の“型”に従えたら――

 以後、それには従わないことも許されていた――

 ということです。

 

 ……

 

 ……

 

 意識的か無意識的かはさておき――

 

 日本の教育現場では――

 僕のいう“懐疑的思考”を“型”の1つと捉え――

 その徹底的な習得を子どもたちに求めます。

 

 その徹底ぶりは、いわゆる、

 ――受験勉強の弊害

 として――

 すっかり世の中に定着をしてしまっているくらいですが――

 もちろん――

 その定着が狙いであるわけはなく――

 

 狙いは、

 ――ひとたび“懐疑的思考”が行えるようになったなら、“懐疑的思考”の限界を知り、“懐疑的思考”に拘泥をしない自由な思考を行うようになってほしい。

 という示唆にあるのでしょう。

 

 その示唆が明示的ではないゆえに――

 日本の教育現場は、しばしば誤解をされるのですが――

 

 そこは、

 ――わかる者だけが、わかればよい。

 ということなのでしょうね。

 

 そのような諦念が良いか悪いかは――

 きょうの『道草日記』では、あえて触れませんが――

 

 国際社会のグローバル化が顕著になってきている現代においては、

(そろそろ変わってきてもいいんじゃないか)

 と、僕は思います。