日本の教育現場の狙いは、
――ひとたび“懐疑的思考”が行えるようになったなら、“懐疑的思考”の限界を知り、“懐疑的思考”に拘泥をしない自由な思考を行うようになってほしい。
という示唆にあるようだ――
ということを――
8月11日の『道草日記』で述べました。
そのような“自由な思考”の1つが、
――批判的思考
である――
ということは――
8月12日の『道草日記』で述べています。
……
……
“自由な思考”としては――
――批判的思考
以外に、どんな思考があるでしょうか。
……
……
僕は、
――逸脱的思考
というのが挙げられると、考えています。
どのような思考か――
……
……
7月31日の『道草日記』で――
僕は、
――批判的思考
も、
――懐疑的思考
も、
――論理的思考
が素になっている――
ということを述べました。
すなわち、
――批判的思考
では、
論理1
↓
論理2
↓
:
↓
論理n
という“論理的思考”の連なりに始まりと終わりとを定め――
その始まりや終わりの良し悪しに必ず“批判”を加えようとし――
――懐疑的思考(確認的思考)
では、
論理1
↓
論理2
↓
:
↓
論理n
という“論理的思考”の連なりのあらゆるところに意識を及ぼして――
それら連なりに誤りや綻びがないかどうか、“懐疑(確認)”の目を向けようとする――
ということです。
……
……
僕のいう、
――逸脱的思考
は――
これら、
――批判的思考
や、
――懐疑的思考
とは根本的に異なります。
――逸脱的思考
では、
論理1
↓
論理2
↓
:
↓
論理n
という“論理的思考”の連なりの論理的な整合性には拘りません。
むしろ、その整合性をあえて疎んじたり、崩したり、壊したり、無かったことにしたりする――そんな思考のことです。
例えば――
気の向くままに自由な連想を導き出し、その連想を大切にしながら、何となく考えを進めていく――
論理の飛躍を恐れず――あるいは、気にせず――
論理の整合性が不十分であっても――あるいは、明らかな誤謬を含んでいても――
一向にかまわない――
そんな思考です。
それは――
本来なら、
――随想的思考
とか、
――雑談的思考
とかというほうが、よいかもしれません。
が――
僕は人が悪いので――(笑
あえて、
――批判
とか、
――懐疑
といった言葉と同様、否定的な意味合いをもつ、
――逸脱
という言葉に着目をして――
――逸脱的思考
と呼ぶことにします。