マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

受験勉強と学問との関係

 いわゆる受験勉強に絡めて――

 僕のいう、

 ――懐疑的思考

 と、いわゆる、

 ――批判的思考

 との違いを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ……

 

 ……

 

 ――受験勉強

 といいますと、

 ――それは学問の本質からはズレている。

 などと、よくいわれます。

 

 が――

 同時に、

 ――「学問の本質と全く関係がない」というわけでもない。

 ともいわれます。

 

 それは――

 僕にいわせれば――

 受験勉強が、

 ――懐疑的思考

 に他ならないからです。

 

 学問とは、

 ――世の中の物事をよくみて何らかの原理を見出すこと

 といえます。

 その「原理」というのは、ほぼ必ず、

 ――新たな知見

 であることが求められます。

 

 つまり、

 ――未知の原理を見出すこと

 あるいは、

 ――過去に誰も示していない知見を示すこと

 それが、

 ――学問

 です。

 

 よって、

 ――批判的思考

 が学問の中心にあることは、ほぼ自明といえます。

 

 少なくとも、

 ――懐疑的思考

 が学問の中心にあるとは、到底いえません。

 

 ただし――

 

 誤解を恐れずにいえば――

 

 ――“懐疑的思考”は学問の土台にある。

 とはいえますし――

 少なくとも、

 ――学問の周辺にある。

 とはいえるでしょう。

 

 7日前の『道草日記』で――

 僕は、

 ――批判的思考

 と、

 ――論理的思考

 とを対立的にとらえるのはよくない、ということを述べました。

 

 ――論理的思考

 は、

 ――批判的思考

 の素になっている、ということです。

 

 その論理的思考を同じく素にしているのが、

 ――懐疑的思考

 であるのですが――

 この思考も、決して、

 ――批判的思考

 と対立をしているわけではありません。

 

 少なくとも、“懐疑的思考”を十分にすることなく、良質の“批判的思考”をすることは、不可能でしょう。

 

 つまり、

 ――“懐疑的思考”は、“批判的思考”をする上で、必要ではあるが、十分ではない。

 ということになります。

 

 そんな“懐疑的思考”に特化をしているのが、

 ――受験勉強

 なのです。

 

 よって――

 受験勉強だけで学問をした気分に浸るのは、笑止といえますが――

 受験勉強のことをいたずらに腐(くさ)すのは、浅慮といえます。