マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「確認的思考」は「懐疑的思考」であり、「質問的思考」である

 ――論理的思考

 が素になってはいるが、

 ――批判的思考

 とは別の思考として、

 ――確認的思考

 というものを考えたい――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 この“確認的思考”の最大の利点は――

 きのうの『道草日記』で述べたように――

 様々な事実・原理・仮定、あるいは、自分も含め、誰かの主張・見解・仮説を、

 ――集めたくなる

 ということです。

 

 人の世は、凡百のものも含め、“論理的思考”で溢れかえっています。

 

 そうした数多の“論理的思考”について――

 広範かつ精密に“確認”を行った結果、

 ――それ、誤りだよね?

 とか、

 ――ここ、綻びている!

 とかいうことがわかると――

 その誤りや綻びの修正のためには、どんな事実・原理・仮定によればよさそうか――あるいは、どんな主張・見解・仮説をあてればよさそうか――といった問いを――

 人は自然に覚えます。

 

 そうした心の動きを無理なくもたらす思考――

 それが、

 ――確認的思考

 です。

 

 端的にいえば、

 ――確認的思考

 とは、

 ――疑問をあぶりだす思考

 ともいえます。

 

 どんなに平凡な言説からも疑問をあぶりだす――

 

 それは――

 あえて“批判的思考”のような誤解の招きやすい呼称を用いるなら――

 ――懐疑的思考

 となるでしょう。

 

 “批判的思考”が、

 ――人の欠点や短所をあげつらう思考

 でないのと同じように――

 ――懐疑的思考

 は、

 ――言説の正しさや確かさを疑う思考

 ではありません。

 

 それは、

 ――新たな問いを生み出すために、何事も疑ってかかる思考

 です。

 

 「新たな問いを生み出すために」を重くみるならば、

 ――懐疑的思考

 は、

 ――質問的思考

 と呼ぶこともできるでしょう。

 

 要するに――

 きのうの『道草日記』で僕が示した「確認的思考」というのは、

 ――懐疑的思考

 でもあるし、

 ――質問的思考

 でもあるのです。

 

 それは、

 ――あらゆる言説に懐疑の関心を向け、論理的に確認を行う結果、何らかの誤りや綻びを見出し、それら誤りや綻びから示唆を得て、創造的に質問を行う思考

 ということになります。