マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“論理的思考”が素になってはいるが“批判的思考”とは別の思考

 ――批判的思考

 と、

 ――論理的思考

 との違いについて――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 が――

 本来、この2つの思考は、対立的に捉えるべきことではありません。

 

 ――批判的思考

 の素になっているのが、

 ――論理的思考

 なのであって――

 

 ――批判的思考

 は、

 ――論理的思考

 の一種といってかまいません。

 

 すなわち、

 ――批判的思考

 とは、

 

  論理1

   ↓

  論理2

   ↓

    :

   ↓

  論理n

 

 という“論理的思考”の連なりに始まりと終わりとを定め――

 その始まりや終わりの良し悪しに必ず“批判”を加えようとする思考です。

 

 一方――

 “批判的思考”と同じように、“論理的思考”が素にはなっているけれども、“批判的思考”とは少し違った思考というのを、考えることができます。

 

 例えば――

 

  論理1

   ↓

  論理2

   ↓

    :

   ↓

  論理n

 

 という“論理的思考”の連なりのあらゆるところに目を向けて――

 それら連なりに誤りや綻びがないかの“確認”をしようとする思考です。

 

 この思考を――

 今、

 ――確認的思考

 と呼びましょう。

 

 ――確認的思考

 では、誤りや綻びの“確認”は、純粋に誤りを直したり綻びを繕ったりするために行います。

 

 誤りや綻びの存在に気づき、認めると――

 人の自然な気持ちとして、それら誤りを直したり綻びを繕ったりしたくなります。

 

 その際に、疑問が浮かびます。

 ――この誤りは、どうすれば直せるだろう?

 あるいは、

 ――この綻びは、どうすれば繕えるだろう?

 といった疑問です。

 

 そして――

 その直しや繕いに資する材料を集めたくなる――

 その材料とは、事実であったり、原理であったり、仮定であったり、あるいは、誰かの主張であったり、見解であったり、仮説であったりする――

 

 この、

 ――集めたくなる

 というのが、

 ――確認的思考

 の成果です。

 

 ――確認的思考

 では、“論理的思考”の連なりだけをみて――

 その連なりの始まりや終わり――とくに、終わり――には目を向けません。

 

 つまり――

 誤りや綻びの確認は、“論理的思考”の連なりの終わりを否む――つまり、“結論の導出”を否む――ために行うのではないのです。

 

 この点において、

 ――確認的思考

 は、

 ――批判的思考

 とは明瞭に異なります。