英語圏で重視をされている、
――批判的思考
に対し――
日本語圏で重視をされ始めている、
――懐疑的思考
というものを考えてみたい――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
この“懐疑的思考”は、いわゆる、
――質問力
の基礎となる思考であることも――
きのうの『道草日記』で述べました。
――質問力
というと――
どのような質問を、どこで、誰に、具体的にどのようにするのか――
に関心が向かいがちです。
もちろん――
それは、それで大切ですし、有意義ではあります。
が、
(その前に、まず必要なことがあるのでは?)
と、僕は思っています。
(いくら質問力を磨こうとしても、“懐疑的思考”が十分にできなければ、なかなか良い質問はできないのでは?)
と――
(まずは、“懐疑的思考”でしょ)
と――
……
……
世の“質問力”の書籍の多くでは――
僕のいう“懐疑的思考”は、
――できて当たり前
と、みなされているようです。
たしかに――
それができる人にとっては、
――できて当たり前
なのです。
が――
現実には、それができない人も少なからずいます。
そういう人に、いくら、
――質問力!
といっても――
ほとんど響かないと思うのですね。
まず、“懐疑的思考”ができるようになる必要があります。
その上で――
その思考の実践の過程や結果を、いかに形にしていくか――例えば、いかに言葉で表すか、いかに行動に結びつけるか――
そこに関心を向けていくのがよいと思います。
では――
なぜ世の“質問力”の書籍では――
そのことが強調をされないのか――
……
……
それは――
僕のいう、
――懐疑的思考
が――
要するに、
――理屈を正しく、わかりやすく使う。
とか、
――理屈の誤りや綻びを的確に見つけ出す。
とかいうことであるからです。
これら思考は、少なくとも日本語圏では、遅くとも高等学校を終えるまでに身につくことになっています。
実際には――
学校の勉強が相応に得意であった人たち以外は、十分には身につかないのですが――
そうした現実は、しばしば認識をされません。
よって――
なかなか書籍のテーマとはなりにくいのですね。
日本人は、学校の教科書が伝え尽くしているとみられることを、わざわざ一般書籍で伝え直そうとは――
ふつうは思わないものです。
かくいう僕も――
そういうことは、できれば伝え直したくありませんよ(笑