――将来、“確かな知恵”を示せるように“知識”を溜めさせ、“巧みな技術”を施せるように“経験”を積ませることが、教育の要諦である。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
これを踏まえると――
当然ながら――
以下の疑問に行き当たります。
――“知識”を溜めさせたあと、“知恵”を示させるには、どうしたらよいのか――あるいは、“経験”を積ませたあと、“技術”を施させるには、どうしたらよいのか。
……
……
結論をいえば――
……
……
――どうしようもない。
です。
教育に可能なことは、
――“知識”を溜めさせる。
というところまで――あるいは、
――“経験”を積ませる。
というところまで――です。
そのようにして溜めた“知識”をいかに活かすか――あるいは、そのようにして積んだ“経験”をいかに活かすかは――
先達が後進に伝えうることではないのです。
先達が後進にしてあげられることは――
自分の“知識”を活かして“知恵”を示すところをみせつづけること――あるいは、自分の“経験”を活かして“技術”を施すところをみせつづけること――
それだけです。
そのように、
――範を垂れる
ということでしか――
真の意味での教育は不可能です。
ただし――
その際に――
“知識”や“経験”の量の差が、先達と後進とで甚だしい場合には――
留意が必要です。
そのような場合には――
先達が、いくら“知恵”を示しつづけたところで――あるいは、いくら“技術”を施しつづけたところで、
――意味はない。
といえます。
むしろ、後進の意気込みを挫きかねないという意味で、逆効果かもしれません。
ひらがなを覚えたばかりの幼児に――
自ら編み出した人生訓をいいきかせたり、自ら書き連ねた詩や小説をよみきかせたりすることを思えばよいでしょう。