――人間には闘争気質が備わっている。だから、太古の昔から争いが絶えなかったのだ。
と、いわれます。
争いは、ときに戦争となり、多くの人間を殺します。
それではいけないということで、スポーツなどが生まれました。
つまり、
――スポーツは人間の闘争気質を部分的に解放するためにある。
という考え方です。
やるほうも、みるほうも目的は同じです。
スポーツは闘争気質の解放なのですね。それも部分的な解放です。
全面的に解放すると戦争になって大勢の人間が死ぬ――それは困る――だから、部分的に解放する――
こうした考えに立つと――
例えば、今、アメリカで行われているワールド・ベースボール・クラシック(WBC)も、今年、ドイツで行われるサッカーのワールド・カップも、みな闘争気質の部分的な解放のためにある、ということになります。
そうとらえると、スポーツ文化も急に色あせてしまいますね。
人間には闘争気質が埋め込まれている、と――
それを和らげるためにスポーツを実践し、観戦しているのだ、と――
ちょっと救いようがない気もします。
時々、
――スポーツなんか大嫌い! みるのも、やるのもイヤ!
という人がいますが、自分の内なる闘争気質を憎んでのことかもしれません。
何となく、わかるような気がします。
*
僕は、スポーツが嫌いではありません。
実際、あと数分で始まるWBCの日本vs韓国のゲームにも、強い関心をもっています。
が、もっぱら、みるほうです。
やるほうはダメなのです。生来の運動嫌いです。日頃、怠けてばかりいるので、体がついていきません。
つまり、自分の闘争気質を他人に肩代わりさせているのですね。
ある意味、卑怯かもしれません。
そう考えると落ち込みます。
とはいえ、仕方ないですね。
自分の内なる闘争気質を無視しても、いいことはありません。
そういうものだと思って、受け容れざるをえないでしょう。