マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「文系人間」「理系人間」?

 僕は、人を文系や理系に区分する意義は、きわめて薄いのではないかと考えています。

 ――オレって理系だからさ。

 とか、

 ――あの人は、ずっと文系で……。

 とかいう言葉を、僕はなるべく使わないようにしております。

(使ってもしょうがない)
 と思っているのです。

 文系や理系といった区分が多少なりとも意味をもつのは、大学受験のときくらいではないでしょうか。

 つまり、「文系人間」とか「理系人間」という概念の存在を、僕は疑っているのです。

 僕は高校の頃から、よく「文系的だ」といわれました。
 それが嫌で、なんとか理系的であろうとし、物理学や数学に強い関心を持ち続けました。

 本当は違う――理系的であろうとしたかったのではなく、文系や理系といった区分それ自体を否定したかった――
 今は、そう思います。

 実際に、和歌が好きなら、方程式も好きでしたからね。

 僕は高校の頃から小説を書いていました。
 小説を書くという行為は意外に論理を要求されます。科学的な論理といいかえてもいい。

 もっとも、科学の神髄は、実験や観測による仮説の検証にありますから、「科学的な論理」というのは、必ずしも科学に特異的なものではありません。
 科学の世界で必要とされる論理が、小説の世界でも、ふつうに必要とされている、ということです。

 その論理の実体を説明すると、

 ――なあんだ、そんなこと!

 と、バカにされるのですが――同じであるということが大事だと思うのです。

 ――あれとこれとは違う。

 という認識よりは、

 ――あれとこれとは同じ。

 という認識のほうが、僕には重要に思えるのです。