マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

ガマガエルの白い腹

 最近、

 ――人の審美は何が規定するのだろう?

 ということについて考えています。

 ――人が美しいと思う根拠ないし契機は何か?

 ということです。

 いま固まりつつある結論は、以下のようなものです。
 すなわち――

     *

 審美は主観に根差すと考えています。
 客観であると主張する人もいるようですが、僕はそうは思わない。

 そして――
 主観は常に相対です。

 つまり――
 審美は相対なのです。

 ということは――
 経験が全てではないでしょうか。
 経験だけが審美を規定する、ということです。

 例えば――
 ある物を美しいと思い込み、それを何年も見続けていれば、いつしか、それを美しいと感じるようになる――心の底から美しいと感じるようになる――
 そういうことです。

 この際、「ある物」は何でもよいのです。
 ガマガエルが手足を広げて仰向けになった様子でもよい。ダラしなく白い腹をみせている――その様子を、

 ――美しい

 と思い込んで何年も見続けているうちに、いつしか心の底から、
(美しい)
 と感じるようになるのではないか――

 もちろん――
 ガマガエルがダラしなく白い腹をみせている様子を、今の僕は、とくに美しいとは思いません。

 が、そんなことは、どうでもよい。
 そんなガマガエルであっても、仮に不退転の決意で、

 ――美しい

 と思い込み続ければ、いつしか、
(美しい)
 と感じるようになるのではないか――

 審美とは、それくらい徹底的に相対的ではないか――
 そういうことです。

     *

 だから――
 審美は恐ろしい。

 仮に、ほとんどの人が、

 ――美しい

 とはみなさない物を、
(美しい)
 と感じるようならば、かなりの不幸だと思うのですよね。

 逆に、ほとんどの人が、

 ――美しい

 とみなす物を、
(美しい)
 と感じるならば幸せです。

 審美は人の幸・不幸を左右しうる気がします。