マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

何かを主張する虚しさ

 何かを主張する虚しさに閉口することがあります。
 とりわけ文芸畑で主張するときは、そうです。

 例えば、自分の尊敬する作家が何かを主張しているのに触れ、

 ――それは違うだろう。

 とか、

 ――何がいいたいのか、わからないぞ。

 とかと、感じてしまうようなときです。

 尊敬している作家ですから、本当は、そんなことなど感じたくはない――
 でも、感じてしまう――

 感じてしまうものは、どうしようもない――

 尊敬している人物の言ですら、そうなのですから――
 ただの人物の言など推して知るべし、です。

 ――くだらねえ!

 などと思ってしまうわけですね。

 もちろん――
 これは、みっともないことです。

 ある主張が理解できなかったからといって、その主張が無価値とは限らない――むしろ、それを理解できなかった自分が、

 ――くだらねえ!

 のかもしれないのです。

 このことを思うとき――
 何かを主張することが、にわかに虚しく感じられます。

(何かを主張したって、そんなことは、きっと、ほとんどの人には「くだらねえ!」で済んでしまうに違いない)
 と思うわけです。

 文句はいえません。
 自分だって、しばしば、そのようにして済ましているのですから――

 結局、ほとんどの人にとって「くだらねえ!」で済んでしまうことを主張する――何かを主張したいのなら、その覚悟でする――そういうことなのでしょうね。

 わかりきっていたはずなのです。
 でなければ、文筆への転向など、思いもよらないことです。

 が――
 最近、この認識が重く伸(の)し掛かっています。

 単に読書に疲れているだけかもしれません。
 ここ1、2週間、本を読むことが多くて――
 仕事の都合です。

 読書など無理にするものではありませんね。