小説を書くことの恐ろしさは、素の自分が剥き出しで突出することだと考えています。
虚構という約束事が、書き手を無防備にさせるのでしょうね。
これは実に危ない――
日頃、何気なく思っていることが、全て露(あらわ)になってしまう場合があるからです。
もちろん、心ある人たちによって守られている場合はいいですよ。
――小説って、そういうトコがあるからね、覚悟しようね。
で済んでしまう。
が、そうでない場合は、要注意です。
下手をすると、もう2度と立ち直れないくらいのショックを受ける可能性があります。
――きみの小説、僕は全然、評価できないね。
といわれたばかりに、その後、数十年間、一切、小説を書かなかった人がいるそうです。
僕が、そういう現場に出くわしたら、厳しく糾弾します。
もちろん、
――全然、評価できないね。
などと口走ってしまうほうを、です。
そういうことを口走る人は、小説というものを知らないのです。
特定の小説――例えば、商業誌的小説とか、時代物小説とか――しか知らない――
小説の読み方が硬直しているのです。
もちろん――
誰にでも好きな小説と、そうでない小説とがあります。あるいは、興味ある小説と、そうでない小説とがあります。
好き嫌いや興味の有無を主観的に表明することは、特段、糾弾されるべきことではありません。
むしろ、積極的に表明されるべきです。
つまり、
――全然、評価できないね。
がいけないのであって、
――全然、好きになれないね。
なら良いわけです。
この違いが理解できない人がいます。
困ったものです。
対象を自分の主観で「客観的」に裁きたくなる気持ちはわかりますが、節度ある大人は、そのような欲望を、きちんと制御するものです。
世の中に小説の書き方を説く本はゴマンとあります。
が、小説の読み方を説く本はあるでしょうか? 少なくとも、僕はみたことがありません。
インターネットが発達し、今や誰もが小説を発表できる時代です。
小説の読み方を説く本がゴマンとあっても、おかしくはないと思うのですが――