文章をよむという行為は、不思議なもので――
同じ文章をよんでも、人によって全く受け止め方が異なってくる――そういうものである。
その文章が、たとえ、無味乾燥な説明文であったり、極度に形式的な評論文であったりしても、受け止め方には、たいていの場合、ズレが生じる。
まして――
その文章が、随筆や小説であれば、なおさらだ。
正反対の印象で受け止められたりすることもある。
以上のことを認識してからというもの――
僕は、他人の書いた文賞に腹を立てることの虚しさを、感じるようになった。
実は、それと同じ理由で――
他人の書いた文賞に心を和ませる虚しさというのも、ときに感じることがある。
いいたいことは、こうだ。
すなわち――
腹を立てるのも、心を和ませるのも、直接の引き金は、自分自身の心の襞である。
そして、その「自分自身の心」は、これまでの自分の精神史を全て引きずっている――いわば、自己の幻影である。
自己の幻影に腹を立て、心を和ませる――
そこに、虚しさの根源がある。
だから、思うのだ。
どうせ虚しいのなら、せめて心を和ませるだけにしようではないか、腹を立てるだけで損ではないか、と――
鏡をみて癒されるのは、多少、気持ちが悪い。
が、鏡をみて怒るのは、かなり不毛に違いない。