マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

論理力、ハサミ

 この国では、長年にわたり、論理力の養成が疎かになっている。

 不可解なことだ。

     *

 中学生の頃――
 僕は野球部員だった。

 ある日の放課後、キャッチャーだった先輩に、

 ――職員室からハサミを借りてきて――

 と頼まれた。
 レガースの紐が長すぎたのを切るためだった。

 職員室には教頭先生がいた。

 ――ハサミを貸して下さい。

 というと、教頭先生はニコニコしながらいった。

 ――何に使うのかな?

 警戒の色があった。
 最初は、何に警戒しているのか、わからなかった。
 黙っていると、

 ――ハサミでケンカでもされちゃ困るんだけどな。

 といわれた。
 ニコニコはしていたが、警戒心が剥き出しだった。

 以後、わだかまりが残った。
(ハサミ一つ貸してもらえないのか――)
 と――

     *

 僕は、論理力とは、ハサミのようなものだと思っている。
 ここでいう「論理力」とは良い意味ばかりではない。「屁理屈をこねる力」でもある。

 つまり、例えば、生徒が、

 ――論理力を教えて下さい。

 と要求すると、多くの教師が、

 ――何に使うのかな?

 と訝るだろう、ということだ。

 ――論理力でケンカでもされちゃ困るんだけどな。

 と――
 生徒には、わだかまりが残るに違いない。
(論理力一つ教えてもらえないのか――)
 と――

     *

 以上は、話を単純化したものである。
 教育現場の現実を正しく反映したものではない。

 が、この国の教育現場の一端を突いているつもりだ。
 教師たちは論理力を警戒する――少なくとも、そうみえる。

 そのような警戒心が良いか悪いかという議論は、ここではせぬ。
 ハサミの使い方は、学校ではなく、家庭で教えるべきかもしれぬ。

 が――
 ハサミを生徒たちの手から徒(いたずら)に遠ざけようとするのは不可解だ。

 ハサミで人の眼球を突けば、容易に失明しうるということくらいは教えるべきであろう。
 あるいは、ハサミを巧みに用い、切り紙細工を実践してみせることも意味深かろう。

 もちろん、

 ――ハサミでケンカでもされちゃ――

 というのは、危機管理としては、よくわかる。

 が、もう少し違った言い方もあるはずだ。
 ハサミの危険性や有用性を十分に認識させることが先である。ハサミを使えぬ者にハサミを使う資格はない。
 だからこそ、その使い方を教えねばならぬ。

 論理力も同様だ。