マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

女の子への憧憬

 少年は女の子に認めてもらいたがっている――そう願い、生きている。
 この願いがあって初めて、少年は輝く。

「少年」というのは、実年齢のことをいうのではない。

 例えば、小学生の男児は、実年齢的には少年だが、彼らにとって、女の子とは、しばしば競り合うべきライバルだったりする。
 あるいは、白髪混じりの男は、明らかに少年ではないが、そんな彼らにも、若い女性に認められ、何とも落ち着かずに、はにかんだりすることがある。

 つまり――
 ここでいう「少年」とは、

 ――女の子に認めてもらいたがっている男

 で定義される概念だ。

 この少年を、どのように評価しようと、評価する者の勝手である。
 高尚にみることも、愚鈍にみることも可能だ。

 昔の僕は、愚鈍にみた。
 今は、そうでもない。高尚とまではいかぬが、そこそこには肯定している。

 この変化は、僕の少年への見方が変化したからではない。
 むしろ、女の子への見方が変化した。

 女の子に認められたがっている少年を、男が愚鈍と感じるのは、いわゆる女の子を中途半端にしか理解せぬためである。
 例えば、現実の少女と、少年にとっての女の子とが、全く別物であるという事実には気付いているが――実は、現実の世界には、少年にとっての女の子などは、一人も存在しない――そういうことには気付いていない――そういう段階である。
 あるいは――そのことを、なかなか受け入れられぬ段階か――

 現実の世界から女の子を締め出した男にとって、少年は、女の子へ通じる唯一の隘路となる。

 にもかかわらず、女の子を締め出した男――あるいは、日々の安穏のためには締め出さざるをえなかった男――にとって、少年は、ただひたすらに疎ましい存在だ。

 子をもてば、男は誰でも、そうなるものだ。

 たぶん、僕も、そうである。

 が――
 女の子への憧憬という概念は、失うには、あまりにも惜しい。

 子をもっても、しばらくは少年であろうと努力し続けるに違いない。