写真に撮られた少女の姿体に、性的魅力や非性的魅力を見出したり、その姿体に宿る無常性や夢幻性について論じる向きがある。
インテリの中年男性に多い。
そうした議論の大半を、僕は歯牙にもかけぬ。
価値ある議論が展開されることは、滅多にないといってよい。
もちろん――
そうした嗜好を非難したり、バカにしたりするつもりは、毛頭ない。
それどころか――
これまでの『道草日記』を具(つぶさ)に御覧の方々は、そのような資格が僕にないことを、すぐに了解されるに違いない。
が――
その手の議論――少女の姿体に性的魅力や非性的魅力を見出したり、その姿体に宿る無常性や夢幻性について論じたりする議論――に触れていて、どうにも我慢できぬことがある。
――主観性の吟味が甘い
ということである。
例えば、少女の姿体に性的魅力を見出したり見出さなかったりするのは、あくまで写真を見る側の主観である。
見る者に相応の下心がなければ、そのような議論は成り立たぬ。
同じ少女をみ、その姿体に全く性的魅力を感じぬ者もいる。
女性の大半は感じぬだろうし、男性にも感じぬ者がいる。
結局、見る者の主観が全てを決めているといってよい。
少女の姿体それ自体は、実は大した問題ではない。
このことを厳しく認識せずに少女の姿体を論じても、聞き苦しいこと、この上ない。
客体としての少女の姿体には、これっぽっちの性的魅力も、非性的魅力も、無常性も、夢幻性も、含まれてはいないとみるべきだ。
それら要素は全て、見る者の主観に随伴する精神現象が含む諸要素である。
男が少女の姿体を語るときに真に語っているものは、少女の姿体ではない。
自分の主観に随伴する精神現象だ。
自分の主観の有り体を開示する覚悟もなく、気楽に少女の姿体を語ろうとするのは、子供の火遊びに同じである。