他人と面白さを共有するのは至難のことだ。
例えば――
ある映画を面白いと思って他人に薦めても、
――どこが面白いの?
と訊き返されることは、しょっちゅうである。
「面白い」に普遍性はない。
これまでの『道草日記』で、散々に論じた話である。
だからこそ――
自分と同じものを「面白い」と感じる他人は、貴重な存在なのである。
奇跡といってもよいかもしれぬ。
多感だった頃は、そんな事実は、どうでもよかった。
最初は面白くないと感じても、無理に付き合っているうちに、段々、面白さがわかってきたりもしたからである。
それゆえに、自分が面白いと思ったものを果敢に薦めたりもした。
そこに、何のためらいも感じなかった。
今は感じる。
(これは面白い!)
と思っても、およそ他人に薦める気は起こらぬ。
僕にとって「面白い」とは、そういうことである。
あるいは――
もう少し生々しく白状すれば――
僕が今、本当に面白いと思っていることの一つに、
――人間性の物体化
がある。
人が人を物とみなす思考形式のことだ。
多くは背徳的である。猥褻(わいせつ)が絡んできたりもする。
物心が付き始めた頃から、僕は、ずっと、そればかりを考えていた。
「人間性の物体化」の、どこが面白いのか?
もちろん、説明できぬことはない。
僕は物書きだ。いかなる情念とて、言葉にせねば気が済まぬ。
が――
今は、その気が起こらぬ。
説明せずともわかってくる――そんな僥倖を待ち望むだけである。
僕が、それを説明するとしたら、いつの日か?
間違いはない。
それを面白いとは感じなくなったときである。
自分が面白いと思っていることなど、説明したくない。
面白くないと思ったことこそ、説明したい。
僕にとって「面白い」とは、そういうことでもある。