マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

他人の書いた小説に

 他人の書いた小説に、

 ――ここが悪い、あそこは詰まらない――

 ――こうしたら良くなる、ああしたら面白くなる――

 などと、否定的に口を出すことは、厳に慎まねばならぬ。

 口を出すほうは批評のつもりでも、たいていは見当違いに終わっている。

 一般に、作品のことは作者のほうが理解している。
 批評者よりも深く、広く理解している。

 もちろん、作者が全てを理解しているわけではない。
 作者が知らぬことも多くある。
 が、批評者よりは知っている――そうみるべきである。

 にもかかわらず――
 他人の書いた小説に、否定的に口を出す人が絶えぬ。

 なぜか。

 面白いからである。

 ――禁断の蜜の味

 とまではいわぬが――
 それに準じるものがある。
 ひと度、この味を知ってしまうと、どうにも自制しがたい。つい繰り返してしまう。

 不毛だ。
 否定的な口出しが活かされることは、まず、ないといってよい。

 そうするよりも――
 一読者として、いかに感じ、いかに考え、いかに読んでいったのかを、あますところなく語るのがよい。
 それが、よき批評の原点である。

 否定的な口出しが、よき批評だと思っている人は、よき批評者ではありえぬ。
 プロの作家が、しばしば文芸評論家に噛み付くのは、そうしたことによる。
 曰く――

 ――悔しかったら、私を納得させる批評を書いてみろ!

 と――

 もし、どうしても口を出すのなら――
 作者と心中する覚悟を決めることだ。

 作者として、いかに感じ、いかに考え、いかに書いていったのかを、できる限り作者に寄って、理解する。
 そうした上で、口を出すなら、よい。

     *

 よく、いわれることだが――
 作品は作者の子供である。
 批評者は地域社会の大人のようなものだ。

 であるならば、

 ――お宅のお子さん、しつけがなってませんよ。

 と親に伝える際には、相応の配慮が必要となる。

 作者に口を出すときも同じだ。

 そして――
 ここが肝心なところだが――

 ある家で十分に躾(しつ)けられた子供が――
 他の家でも「十分に躾けられた子供」であるとは限らぬ。
 むしろ「躾が全然なっていない子供」であったりもする。

 だから、恐ろしいのである。

 親が子供をしつけるとき――
 親が最後に依って立つのは、自分の主観的な価値基準にすぎぬ。

 作者が作品を書くときも、また然りである。