マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

頭でっかちの女にしか

 ――女は子宮で考える。

 などという。あるいは、

 ――女は皮膚感覚で動く。

 とも――

 多少、女性蔑視のニュアンスが込められているようだ。

 女性に直に確認したことはないが――
 おそらく、これらの言い回しに喜びを感じる女性は、珍しいに違いない。

 が、こうした女性像が、表立って非難されることは、意外に少ない。
 とりわけ、文芸の世界では、そうである。

 たぶん、虚構の女性像が満たすべき必要条件としての市民権を、得てしまっているのであろう。

 子宮で考えられぬ女性を、

 ――頭でっかちの女

 と呼ぶ。
 皮膚感覚で動かぬ女性も、同様だ。

 そういう女性を小説に書くと――とりわけ、男が小説に書くと――

 ――あいつは女が書けない。

 などといわれる。
 事実、そのような女性を書き、

 ――女が書けない作家

 のレッテルを貼られた大家もあったらしい。

 その批判が妥当だと、僕は思わぬが――
 もし、妥当であるのなら、

 ――頭でっかちの女

 にしか色気を感じぬ男は、どうすれば良いのか。

 男が女を小説に書くときに、格別の理由もなく、女の色気を省く気はせぬ。
 そういう男は、ムリをして、世間でいう女――子宮で考え、皮膚感覚で動く女――を描かねばならぬのか。

 だとすれば――
 文芸も廃れたものである。

 頭でっかちの女にしか色気を感じぬ男も、世の中にはいるのである。

 というよりも――
 むしろ、そういう男が多数派のような気がするのだが、どうだろうか。

 そういう男は、たとえ世間が何といおうとも、頭でっかちの女を描き続けるに違いない。
 そうして書き上げた女が、現実の女性像とは違っていても、大した問題ではない。
 そんなことは、書いている当人が一番よくわかっている。