マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

下野せよ、自由民主党

 政治家が、

 ――与党になりたいから、自民党へ――

 という時代は、早く終わればよいと思っている。

 この国では、戦後、議会制民主主義が、一応は根付いたにも関わらず――
 いまだに選挙による政権交代が常態化しておらぬ。

 由々しき問題だ。

     *

 昨日の『道草日記』は安倍首相や安倍政権の悪口だ。
 時の首相や政権には一定の敬意を抱く――それが僕の流儀であった。

 が、安倍首相や安倍政権に敬意を抱くことは難しい。

 理由は簡単だ。
 まだ選挙に勝ったことがないからである。

 安倍政権は国会での絶対多数の上にアグラをかいている。
 この絶対多数は安倍政権が築いたものではない。小泉政権が築いたものだ。
 その、おコボレにあずかっているのが実情である。

 その「おコボレあずかり状態」を、安倍首相は、それなりに謙虚に、認識しているものと思っていた。
(いくら、お坊っちゃん育ちでも、政治家としての最低限の倫理観は備えていよう)
 と考えたのである。

 が、違った。
 安倍首相は認識しておらぬ。

 だからこそ、それなりに定着していた教育基本法を、国民的論議が喚起されぬ間に、あっさり改変してしまった。

 傲慢の誹りは免れぬ。

 それだけではない。品性が卑しい。
美しい国へ」などと呼びかけつつ、「おコボレあずかり状態」に寄り掛かった政局運営は、実に姑息であるといわねばならぬ。

 小泉政権は、郵政民営化に、あれだけの時間と手間とをかけた。
 その結果の是非はともかく、その過程を導出した手腕は非凡である。

 小泉総理本人が、どこまで意識していたかは、わからぬ。
 が、少なくとも国民的議論は十分に喚起した。政敵やマスコミに「劇場」などと揶揄されれば、十分である。

 安倍首相の手腕は、その足下にも及ばぬ。

 もちろん――
 能力がないこと自体は罪ではない。

 安倍首相が凡庸でも、それは仕方がない。
 そういう人物を首相の座に押し上げた団体にこそ、責任がある。
 自由民主党という団体である。

 次の選挙で自由民主党を下野させぬ限り、この国の未来は暗い。

 民主党や他の野党に政権担当能力があるかないかは、この際、問題ではない。

 安倍首相の擁立や教育基本法の改変で、現与党の政権担当能力とて、大いに怪しくなった。
 今、必要なのは、政権交代の常態化である。

 残念ながら、そのような低次元の判断を下さねばならぬほどに、この国の議会制民主主義は未熟だ。