ここ何年かで――
時間について考えている。
時間は、哲学の大問題だ。
自我や自己と、切っても切れぬ関係にあるからであろう。
自我は、自己の内なる変化(心の動き)や自己の外なる変化(物の動き)を基に、
――どうも世界には時間というものが流れているらしい。
と考える。
そのほうが合理的だからである。
「合理的」と呼ぶには、あまりにも素朴な合理性だが――
僕が時間に興味をもったのは、哲学的見地からではない。
物理学的見地である。
高校を卒業するかしないかの頃――
僕は物体の運動について考えていた。
まず始めたことは――
物体を、生命体と非生命体に分けたことである。
「非生命体」とは、ただの物体のことである。
ここでは「真物体」とでも呼んでおこう。
質量mの真物体と質量mの生命体とが、ともに加速度aで運動するとき――
それら2つの現象の間には、どのような差異が横たわるのか――
当時の僕は――
小説を書きながらも、余った時間で――
そのような思考にばかり、費やしていた。
運動とは、物の動きに他ならぬ。
僕の興味が時間に集約されていったことは、当然の成り行きといえる。
その後は――
茂木健一郎さんが『脳とクオリア』(日経サイエンス社、1997年)などで展開された時間についてのキーワード――「物理的時間」「心理的時間」――に強く惹き付けられていくのだが――
そこまで書けば、ジオログの字数が尽きてしまう。
とにかく――
僕は、このように時間について考えてきた。