マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

死体の官能美

 しばしば虚構の世界では――
 死体は美しいものとして描かれる。

 それも、単に美しいのではなく――
 官能的に美しい。

 現実の死体は、そんなに美しいものではない。
 少なくとも、官能的には美しくない。
 現実の死体を実際にみたことのある人なら、よくわかることである。

 もちろん――
 僕が知らぬだけで――
 もしかしたら、現実の死体が官能的に美しく感じられうる事例が、あるのかもしれぬ。
 が、通常の事例では、そういうことはありえまい。

 興味を覚えるのは、

 ――なぜ虚構の死体は美しいのか?

 ということである。
 つまり、人が虚構の世界に死体の官能美を託す理由――それがわからぬ。

 ――死と官能とが結びつきやすいから――

 というなら、とりあえずは受け入れ可能だ。
 経験的に可能である。死と官能との連結を描いた芸術作品なら、山とある。

 が――
 なぜ、死と官能とが結びつきやすいのか――そこがわからぬ。
 別に、無理に結びつかなくても、良さそうなものである。

 鍵は、

 ――人形愛

 かもしれぬ。

 死体とは――
 かつて人間であって、今は人形となっているもの、と捉えることができる。
 少なくとも、そういうものだと解釈できる。

 よって――
 もし、全ての人が官能美を等しく人形愛の枠組みで処理しうるならば――
 死体の官能美は必然である。

 が、人形愛のような理念を、人間の精神活動の基本原理に据えることには、抵抗がある。
 なぜ、人形愛を基本原理に据えねばならぬのか――そこの必然が薄い。

 とりあえず、そういうものだと思って議論を始めよう。
 その誘惑は、僕にとっては、たいそう甘く感じられる。

 もちろん――
 多くの賛同が得られるとは、ちょっと思えぬのであるが――