マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

秀才肌、天才肌

 僕は、しばしば、

 ――秀才肌

 と、

 ――天才肌

 とを列挙する。

 この世に生きる人々の全ては、どちらか一方に分類できると考えるからだ。

 昨日の『道草日記』で、あのようなことを書いたのも――
 そうした人間観に基づいている。

 もちろん――
 この世に生きる人々のほとんどは、僕も含めて、秀才でもなく、天才でもない。
 真の秀才や天才には、そう簡単にはお目にかかれぬ。

 とはいえ、

 ――秀才っぽい人

 や、

 ――天才っぽい人

 なら、結構いる。
 わりと、すぐに目につく。

 そういった人々に直に接し、その類型を突き詰めていくと、みえてくることがある。

 秀才肌は、自分を律し、他人を活かす。天才肌は、自分を活かし、他人を巻き込む。
 秀才はフォロワーシップに優れ、天才はリーダーシップに優れる。

 人の世は、どちらか一方ではダメである。
 秀才と天才とが列挙されるときには、しばしば、秀才が否定的に扱われるが――
 その扱いは間違いだ。

 天才肌ばかりの組織では立ちゆかぬ。秀才肌ばかりの組織も同様だ。
 ほどよく混合されねばならぬ。

 だから――
 自分を秀才肌と思うなら、天才肌の多い組織に入ることだ。
 天才肌と思うなら、秀才肌の多そうな組織を選ぶ。

 そのためには、自分が、どちらの肌かを、弁えねばならぬ。

 これが意外に難しい。
 他人のことなら、すぐに、わかるのだが――

 ちなみに――
 まれに、秀才肌と天才肌とが五分五分の人がいる。

 そういう人には注意が必要だ。

 時と場所によって、双方を使い分けられる人は、傑物である。
 が、常に双方が同居している人は、俗物であることが多い。秀才肌と天才肌とが打ち消し合って、何者にもなれぬ可能性が高い。