マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

リアリティの加減

 物語に必要なものは、適度なリアリティである。
 リアリティとは、

 ――もっともらしさ

 くらいの意味だ。

「適度」というのが難しい。
 あまりにもリアリティを帯びすぎると、安っぽくなる。

 かといって――
 まったくリアリティがなければ、誰の共感も得られぬ。

 ちょうど良い加減というものがある。

 厄介なのは――
 その加減が、個人でバラバラらしいということだ。

 例えば――
 ある人には十分すぎるリアリティが、ある人には物足りなく感じられ――
 ある人には不十分なリアリティが、ある人には過剰に感じられる。

 僕は不十分なリアリティーで満足できるタチである。

 むしろ――
 過剰なリアリティを嫌う。

 リアリティは最低限でよい。
 そういうものは、フィクションの領分には期待せぬ。ノンフィクションの領分だと思っている。

 歴史が良い例かもしれぬ。

 歴史小説は――
 奇想天外、荒唐無稽、客観放棄に限る。
 リアリティは邪魔である。

 歴史にリアリティを求めるなら――
 歴史書をよむ。

 ときどき――
 歴史を好む人で、歴史小説を嫌う人がいる。

 気持ちは、わからなくもない。
 歴史に熱い人ほど、そのような気持ちになるものだ。

 が、僕は、それには与せぬ。

 歴史を心底、味わうためには――
 どちらも不可欠である。

 歴史書をよみ、歴史小説もよむ。
 どちらか一方では、歴史の面白さを半分くらい享受し損ねている。

 歴史書もよむから――
 奇想天外、荒唐無稽、客観放棄でよい。

 中途半端な歴史小説では意味がない。