マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

中庸

 昨日の『道草日記』に書いたように、

 ――明日こそはコーン・ポタージュを飲んでやる。

 と昨日、誓ったので――
 今日は、仙台郊外のレストランまで、車で出かけてきた。

 心おきなく、コーン・ポタージュを飲んできた。

 ちょっと飲み過ぎた。

 どうも、いけない。
 僕は、十代の後半当たりから、中庸というものが実践できずにいる。
 何ごとも、行く着くところまで行き着かねば、気が済まぬのだ。

 もっとも――
 この性質のお陰で、過去に色々な権益を得たりもしているので――
 一概に後悔をしているわけではない。

 とはいえ――
 もう少し、何とかならぬものかと、我ながら、少々、辟易している。
 とくに三十代に入ってからは、その思いが強い。

 小学校の頃は、何ごとも、ほどほどに済ませていた気がする。
 中学校に入って、余計な知恵を付けたのかもしれぬ。

 中庸という言葉を初めて意識したのは、19歳か20歳の頃であった。

 ――過ぎたるは、なお及ばざるがごとし。

 に代表される儒教の教えとして認識した。

 同じような徳目は、西洋にもあるという。
 人類普遍の価値観といってよい。

 中庸は、

 ――何ごとも、ほどほどに――

 とは、少し違う。

 中庸は、例えば、蛮勇と勇気との違いを見出すことに相当する。
 人の知性に深く根ざした観念だ。

 少し、中庸に敏感に生きてみよう。