マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

社会的意味付け

 人生の過ごし方を大きく2つにわけるとしたら――

 ――社会的意味付けを重視するか軽視するか。

 ではなかろうか。

 社会的意味付けとは――
 簡単にいえば――
 社会的地位、および、それがもたらす富や権力の獲得ないし保持である。

 社会的意味付けを重視する者と軽視する者との間には、何やら、底知れぬ溝が横たわっているようにも感じられるが――
 実際のところは、どうであろう。

 僕自身は、どちらかといえば、社会的意味付けを重視せぬ。
 むしろ、軽視しているといってよい。

 が、無視はせぬ。

 したくても、できぬ。

 人の社会において、いくらかでも安定した生活を送ろうと思うなら――
 何らかの社会的意味付けには、すがらねばならぬ。

 人は誰しも、少しは安定した生活を送りたい。
 明日の着る物や食べる物が見当たらぬようでは、生きていくのが辛(つら)い。

 社会的意味付けを無視はせぬということは、社会への適応を意味する。
 人の社会とは、そういうものだ。

 であるならば――
 これを重視するということは、社会への過適応かもしれぬ。

 とはいえ――
 安定とは、どんなに安定しても、しすぎることはない――そういう概念である。

 ――過適応

 などと呼ぶと、いささか非難がましくきこえるが――
 いったい誰が責められようか。

 人は、多かれ少なかれ、社会的意味付けに、すがって生きねばならぬ。
 それを重視するも軽視するも――
 結局は、程度の差にすぎぬ。

 両者の間に、底知れぬ溝などは存在せぬ。